ハートふるメッセージ

荒川区西日暮里の神経科・心療内科・精神療法・カウンセリング・薬物療法の倉岡クリニックがお送りする、心に響くメッセージブログです
117.敗者復活
人は誰でも生きていく上で様々な失敗をする。試験に失敗する。恋愛に
失敗する。仕事に失敗する。人間関係に失敗する。それこそ失敗の連続
である。これは現在どんなに成功している人も、エリートといわれる人
も同じである。

世の中で成功者といわれる人たち、周りの人からその生き方を羨ましが
られる人たちも例外ではない。むしろそういう人たちこそ、そうでない
人々に比べて、より多くの失敗を経験しているものである。それはなぜ
だろうか。

人は生まれてくるとき、これから自分が世の中でどのように成長してい
くのか、世の中の仕組みはどうなっているのか、全く知らずに生まれて
くるのである。両親の愛に育まれながら成長し、知恵がつき知識が増え
ると、世の中の仕組みがだんだんわかってくる。

世の中で生きていくためには何が必要なのか、それを学んでいく過程で
過ちを犯したり、失敗を繰り返しながら、人生で必要な知識や知恵を学
びとっていくものである。

あることを試みて失敗したら、今度はどのように振舞ったらうまくいく
だろうかと、調整を繰り返しながら、失敗しない方法へとたどり着く。

赤ちゃんがハイハイを始める。親にとってはうれしいことである。
今度は立ち上がろうとする。「立った、立った。」と親は喜ぶ。
さらにおそるおそる足を前に出して歩こうとする。そして転ぶ。
また立ちあがって歩こうとする。「歩いた、歩いた。」と親は手を
叩いて喜ぶ。

転んでも立ち上がって歩こうとする赤ちゃんは、遺伝子にそのように
プログラムされている。赤ちゃんは、転んでも立ち上がろうとする
意欲をもち、何度も転ぶことによって転ばない歩き方を、くりかえし、
くりかえし、学習しているのである。これが本来の人間に備わった
プログラムなのである。

人は大人になっても、このようにして成長していくようにプログラム
されている。失敗を繰り返しながら、どうしたらうまくいくのか、
手加減を覚え、気持ちを調整して、一番いいと思えるやり方に辿り
着く。

しかし、失敗はいやなものである。できることなら失敗を避けたい。
この気持ちは誰でももっている。人は失敗することで、周りから非難
される、自尊心が傷つく、自信喪失をする。だから失敗を恐れるので
ある。

でも失敗することを恐れてチャレンジしないでいると、物事はすすま
なくなる。むしろさらに困難な事態に直面することになる。そして
その人の成長が止まってしまう。

何故なら、失敗しないと成功する方法が見つからないからである。
すべて成功するということは失敗からしか学べないのである。

こういう逸話がある。エジソンは電球を発明するのに、1000回の実験
をしたそうである。インタビューをした記者に999回失敗したといわれ
て、彼は失敗は一度もしていない。これではうまくいかないということ
が分かった。これは偉大な成功だといったという。

失敗を失敗ととらえるか、成功ととらえるかはその人の姿勢にある。
失敗を逆手にとって、そこから学びとる人と、失敗を自分を否定する
材料にしてしまう人がいる。

私たちは生きている限り失敗はつきものである。何をしてもうまくいく
時とうまくいかない時がある。これは当然であり、だれもが納得する
ところであろう。

失敗してもそれをそのままにしないで、改善して次のステップにつなげて
いくことができれば成功するのである。

人はみんなチャレンジして破れて復活する。私たちの人生はすべて敗者
復活戦を戦っているのである。

チャレンジしなければ成功も失敗もない。成功も失敗もなければ生きる
価値がない。

皆さんはいかがですか?

ハートふるメッセージ | 19:08 | - | -
116.不満を解消する
わたしたちは、いつも不満をいだいている。仕事にも、収入にも、食べる
ことや、服装のこと、住まいのことについても、すなわち社会生活全般に
ついて不満だらけである。

また人間関係においては、自分自身に対しても、家族や友達に対しても
不満の種は尽きない。しかし、わたしたちはなぜ不満を感じているの
だろうか?

現在の日本では、戦後の食糧難や貧困に苦しんだ時代とは違い、
衣食住に関しても人々はそれほど困っているとは思えない。
だとすると不満の原因はどこにあるのだろうか。

確かに、世の中が複雑になってきて、人間関係も昔のように単純に割り
切れないものがある。だから、物質的には満たされているかもしれない
が、心が満たされていないとはよく言われていることである。

不満の原因を考えてみると、いま自分が持っているものではなく、
持っていたい、持つべきであると思い込んでいるもので、それを現実に
は持っていない、ということによる不満ではないだろうか。

それは、地位であったり、財産であったり、人間関係であったり、
そのほかにもいろいろと考えられるだろう。

自分の人生の中で、これは持つべきものであるとか、自分なら持って
いて当然であるとか、信じ込んでいるのだが、その願望が満たされて
いない、その野心が遂げられていない、計画していたことが実行できて
いないなど、期待していたことの多くが実現していない現実がある。
これが不満の根源なのであろう。

人生で夢や願望を持つことは大切なことであるし、それは生きる希望や
夢を与えてくれる。夢がなくなれば生きていく張り合いがなくなる。

しかし夢を実現するための努力がなされないと、それは単なる夢で終わ
ってしまう。願うだけでは何も起こることはないのである。

不満があればそれを解消するための行動を起こさなくてはならない。
そうでなければ不満はいつまでも不満のままで終わってしまう。

いや、不満をそのままにしておくと心が傷ついてしまう。解消する方法
を講じないと、傷口がどんどん広がっていく。不満を解消するための
具体的な行動を起こさなくてはならない。

わたしたちは不満を解消する、願望をかなえるために必要な知恵と知識
を、持っていないわけではない。解決するための手段を間違ったところ
に求めているのである。

自分に不満があるのは、自分にその根本原因があるのであるが、自分
のせいではなく、他人やまわりの環境のせいにしたがる傾向がある。
そうすることによって、心が痛まなくて済むからである。

「あの人のせいでこうなった。」
「あの人がいなかったらこうはならなかった。」という人がいる。

確かにそうかもしれないが、こう言ってしまえば、自分に非がなく
自分を変える必要もない。だから現実はかわらないままで、問題は
解決しない。つまり不満は解消しない。

「あの人」がいなくなっても、また別の「あの人」が現れる。すると
また同じことを繰り返すことになる。

自分のせいにすることも「あの人」のせいにすることも、問題の解決
にはつながらない。解決するためには自分はどうしたらいいのか、
解決するための具体的な手段を探しだすことである。

自分や「あの人」を、頭の中で、裁判にかけて判決を下しても、
問題は解決しないのである。

自己責任という言葉がある。これは、自分の言動によって生じた
すべてのことに、自らが責任を負うということである。

何か問題が生じた場合、それは自分が作り出したのではないかと考え、
そうではないと考えられる場合にのみ、自分以外の要因を探すことで
ある。

自分の言動で生じたことであると自分が認めたら、その代償は遅かれ
早かれ払わなければならない。それが大人というものであろう。

わたしたちは、自分が抱え込んでしまった問題のほとんどを自分で
解決することができる。

天はその人が解決できない課題は与えないのである。
どんなに難しいと思われる課題でも与えられたものは自分の力で必ず
解決できるのである。

自分の問題を他人のせいにしなくなったときに、自分のこころが自由に
なったことがわかるだろう。
ハートふるメッセージ | 18:53 | - | -
115.心理操作
わたしたちは、朝起きて新聞を読む。テレビのスイッチを入れて今日の
ニュースを見る。自分に関係ある世の中の出来事に対して、注意深く
情報を仕入れ、それを分析して安全を確認し、一日を有意義なものに
しようとする。

また、お昼休みに喫茶店でコーヒーを飲みながら、週刊誌や雑誌に目を
通し社会情勢を分析する。これは、会社務めの人なら普通にやっている
ことであろう。

新聞やテレビや雑誌のみならず、会社や学校での同僚やクラスメートと
交わされる会話の中にも大切な情報は潜んでいる。これらの情報を適切
に仕入れて、自分の生活に生かしていくということは、現代社会を生き
ていくために大切なことであるとおもわれる。

しかし、気をつけなければならないのは、これらの情報が正確なもので
あるかどうか、客観的に見て正しいのかどうか、見極める目を持っていな
ければならない、ということであろう。

そのためには、その情報と全く対極の考え方をする情報を手に入れて、
どちらがより正確なことを言っているのか、比べてみることである。

多くの場合、わたしたちは目や耳に飛び込んでくる情報を、無批判に
受け入れてしまう傾向がある。一部のテレビやラジオの報道や、新聞
や週刊誌に書いてある事柄を、疑うことなく信じ込んでしまうところ
がある。

そしていったん正しいと思い込んだ情報は、あとでそれを覆す証拠が出て
きても、なかなか訂正できなくなってしまう。

それは新聞やテレビなどの、マスメディアの言っていることは正しいこと
であると、無意識のうちに思い込んでいるところがあるからである。

人は暗示にかかりやすいものである。
テレビのコマーシャルがいい例である。

有名人がおいしそうにビールをのむ。画面を展開していくリズムやタイミ
ング、光や色の使い方、効果音など、いかにもおいしそうにみえるように
つくられている。

髪のきれいな女優さんが、サラサラの髪を風になびかせ、微笑みかける。
このシャンプーを使うと、誰でもそうなれると思い込ませる。

これは暗示効果を狙ったものだが、テレビを見ているときの人びとの
こころは、心理的にとても無防備な状態にある。

物事を批判したり、評価したりするこころの状態ではなく、何を言われて
も素直に受け入れてしまうこころの状態にあるので、すんなりとその人の
意識下に入り込んでしまう。

するとビールを飲みたくなったり、そのメーカーのシャンプーを使いたく
なってしまい、まんまと買わされてしまうのである。

以前、刑事コロンボ「意識下の映像」の中で、サブリミナル効果を利用
した犯罪を、コロンボが暴いて、事件を解決するというのを見た記憶が
ある。

確か、フィルムの一コマに、真夏の太陽がふりそそぐ、灼熱の浜辺の
映像を挿入して、見ている人にのどの渇きを暗示し、試写室の外に
出させて、水を飲ませるというシーンだったと思う。

これはあくまでフィクションであり、実際にサブリミナル効果がどの程度
のものなのかはわかっていない。しかし、こころが無防備であると、
テレビなどの媒体を通じて、自分の意思と関係なく、いろんな情報が入り
込んでいるのに気がつくと思う。

これらの中には自分にとって有益なものもあるが、有害なものもある。
有害なものについては、自分の中に確たる信念をもっていないと、無意識
のうちに操作されて、被害を被ってしまう。

しかも被害を受けていても気がつかない人もいる。たとえ気がついても
変えようとはしない。

それは前にも述べたように、一旦信じ込んでしまうと、あとから訂正する
ことが難しいからである。なぜ難しいのかというと、自分で判断したこと
と思わされているため、訂正すると、自分の判断が間違っていたと、認め
ざるを得ないことになってしまうからである。

テレビや新聞、雑誌などのマスメディアだけではなく、人は人との交流に
よってもこころを操作されることがある。

相手の弱みにつけ込んで、その人のこころを操作しようとする人がいる。
そういう人々は、操作をされやすい人を敏感にかぎわける能力をもって
いる。

罪悪感をもたせたり、わざと怒らせたり、ののしったり、そうかというと
逆に媚をうったり、お世辞を言ったり、さらに恐怖心を煽ったりといった
、さまざまなやり方で相手を操作しようとする。

心理操作をされやすい人は、心理操作をする人のウソを見抜けないところ
がある。彼らを怒らせたくない、あるいは嫌われたくないと思っている
ため、「ノー」ということができない。いったん相手の言うことに同意
してしまうと、次から次へと無理難題をいってくる。

最初に「イエス」といってしまうとなかなか「ノー」が言えなくなって
しまう。だんだん深みにはまってしまい、そこからなかなか抜け出せなく
なってしまう。

彼らから逃れる方法は、彼らから嫌われても「ノー」と言い続けることで
ある。すると彼らはあなたを自分のために利用できなくなり、ほかの
心理操作されやすい人を探しに行くだろう。
ハートふるメッセージ | 18:43 | - | -
114.自尊心
自尊心という言葉を『広辞苑』で引くと、「自尊の気持ち。特に自分の尊厳を意識・主張して、他人の干渉を排除しようとする心理・態度」とかいてある。

自尊の気持ちとは、一人の人間として、自分自身が持っている、自分自身に対する価値観であり、自分という人間がもっている価値に対する自己評価でもある。

自分は素晴らしいと思う自己評価の高い人、すなわち自尊心の高い人と、自分はつまらない、ダメな人間であると思う自己評価の低い人、すなわち自尊心の低い人がいる。

世の中には自尊心の高い人はほんの一握りで、自尊心の低い人がほとんどである。なぜそのようになったのか。いうまでもないが、小さい時の、その人を取り巻く環境の影響が最も大きいのである。

自尊心の高い人と低い人では、どのように違うのであろうか。

自尊心の高い人は、あるがままの自分を受け入れ、自分に好感を持ち、自分自身を大切な存在として認め、他人に惑わされず、自分の感情を適正にコントロールして、いつも自分に満足している。

また、自分に起こったことに責任を持ち、人生を思うように変える能力を持っていることを知っている。そしてすべての人は、自分と同等の価値を持つと考え、それらの人々に対して、寛容の気持ちと尊敬の念を抱いている。

自分の持っている価値観や信念が、他人が持っている価値観や信念と違うことを認め、自分の価値観や信念を他人に押し付けない。

しかし自尊心の低い人は、あるがままの自分を受け入れることができず、自分の外に存在して、一般的に受け入れられている価値を手にすることが、自分の価値の証であると考える。

たとえば、学業の成績や、仕事の業績を上げることによって、自分に価値を見出そうとする。それができないと自分には価値がないと思い込み、たとえそれが達成されても満足できず、さらに困難な目標を設定して、それができない自分に失望する。

自分を価値のない人間だと思い込み、絶えず自分自身を批判し、叱責する。そして他人に惑わされやすく、他人に認められようと必死になる。自分の感情をコントロールすることができず、自分の感情にコントロールされてしまう。

いつも自分に満足できず、精神的に不安定になり、嫉妬や羨望の気持ちが渦巻き、それが恐怖心を煽る。人生は手に負えないもののように感じられ、酒に溺れ、過食に走り、薬物に依存して、一時的にでも精神の安定を図ろうとするが、長くは続かない。

他人に認められたいという気持ちはあるが、他人を尊敬することができず、寛容の気持ちもないまま、自分の考え方や行動様式を押し付けようとするため、受け入れられずトラブルを起こしてしまう。
そしていつしか人間関係が台なしになってしまう。

人の自尊心を作り上げた背景には、その人が育った環境がある。
それは家庭であり、学校であり、地域社会であった。

生まれたばかりの赤ん坊の時には無垢であった心に、両親や家族、学校の先生や、地域社会の人々から、スポンジが水を吸い続けるように、自分についてのさまざまな情報が刷り込まれたのである。

それらの人々が高い自尊心を持っていた人たちならば、子供は高い自尊心を持った大人に成長するだろう。

しかし、それらの人々が低い自尊心を持った人たちであれば、その子供は、残念だが、低い自尊心を持った大人に成長してしまうのである。

もし、自分が低い自尊心しか持ち合わせていないとすれば、いったいどうしたらいいのだろうか。

いまさら両親や先生、地域の人々を責めてもどうにかなるものでもあるまい。彼らもある意味では、同じ犠牲者なのである。彼らも彼らの両親や先生などに、同じことをされて成長したのである。

自尊心の低い人々の精神的苦痛は、彼らに一種の宿命のように受け止められ、このような否定的な考えが一般的であり、自然なことなのだと思い込まれている。

まわりの多くの人々も、同じような経験をしていることを知ると、それは避けられないものであると確信する。

しかしそうではないのである。低い自尊心を持ってしまった原因を追究していくと、自分に対する間違った評価を、善悪の判断ができない幼少時に、まわりの大人たちに刷り込まれてしまったことに気づく。

理性を持った大人になれば、精神的苦痛の原因が見えてくる。一つ一つ問題点を明らかにして、今までと違ったやり方、考え方を導入して、自分に対する基本的な考え方、すなわち自分の核となる価値観を変え、考え方の枠組みを再構築してみることである。

具体的には、自尊心の高い人々を見つけ、それらの人々との交流を持ち、考え方に触れ、それを自分のものとしてとり入れて、少しずつ自分を変えていくことである。いっぺんにできることではない。

長い年月をかけて作られ、確信に至ったものをそう簡単に変えられるものではないが、自分で作ったものは自分で壊せるし、新しい自分を創造することも、時間をかければできるのである。
ハートふるメッセージ | 18:49 | - | -
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