ハートふるメッセージ

荒川区西日暮里の神経科・心療内科・精神療法・カウンセリング・薬物療法の倉岡クリニックがお送りする、心に響くメッセージブログです
142.人間関係の悩み
 

世のなかに人間関係で悩む人は多い。学校での人間関係で悩み、会社での人間関係で悩み、地域社会での人間関係で悩む。家庭では、夫婦関係、親子関係、兄弟姉妹関係、親戚同士の関係など、人が人と関わると人間関係がうまれ、そこに悩みが生じる。

 

人間関係の悩みはなぜ生じるのだろうか?

 

街で通り過ぎる人々どうしの間には人間関係の悩みは生じない。あたりまえのことである。お互いが知らないどうしであり、お互いが無関心であるから、人間関係そのものが生じないのである。しかし人が人と出会い親しい関係になると、お互いの感情がお互いのこころの間を行き来するようになる。ここではじめて人間関係が生まれるのである。

 

最初のうちは、お互いに相手を好意的にとらえ、優しさや親切心で満たされていて、いい関係である。しかし、時間がたち相手のことがだんだんわかってくると、好意的だった部分が、なぜか否定的な感情にすりかわってしまう。それは違うんじゃないのと、自分の考え方に合わないことが、お互いに相手の中に目立つようになるからである。

 

それでも、せっかくいい関係を築いたのだから、少々のことは仕方がないと思い我慢をする。そのうちまたいい関係に戻れるのではないかと期待する。しかし時間がたてばたつほどだんだんと気持ちが遠ざかっていく。こんなはずではなかったのにと思う。

 

最初に出会ったときは、話が合う、共通の趣味がある、好みが似ている、考え方が近い、何よりも生理的にぴったり合うなどと思ったのだろうが、それは間違ってはいない。ただしそれはその人の一部分であり、その人のすべてではないのである。人間である以上、他に違ったところを持っていても当然なのである。そんなことは理屈の上からはよく承知していたつもりでも、期待が裏切られたという感覚は残ってしまう。

 

人はこころの安らぎを求めるものである。人間関係でも安らげる関係が好ましいのであるが、現実にはそういう関係を持っている人は、はなはだ少ないのではないだろうか。

 

自分が持っている思いと相手が持っている思いは、当然、重なる部分と重ならない部分がある。重なる部分はそれでいいのだが、重ならない部分に対して、それを受け入れることができるかどうかがポイントとなる。誰でも嫌なことは嫌であるし、相手の中にある自分と重ならない部分については受け入れたくないし、我慢もしたくない。

それではいったいどうしたらいいのだろうか?


相手の持っているすべて、自分と重なる部分と重ならない部分と、いっさいがっさいを含めて、すべてを受け入れることができるだけの度量を持った人なら問題はない。そんな人はめったにいないものであるが、それが出来なくても対処法はある。

 

それが出来ない人の考え方として、受け入れられない部分は受け入れない、受け入れられる部分だけ受け入れることにすれば、問題は解決する。この際、受け入れられない部分についてはコメントしないことである。その部分は自分には理解できないことだが、その人にとっては必要なことなのだろうと解釈することである。

 

受け入れられない部分を良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか自分の尺度に合わせて判断しないことである。その人はそういう人なのだと理解して、自分が受け入れられる部分についてだけでお付き合いすればいいのである。すると気持ちが楽になる。

 

自分が受け入れられないことについて、もし相手から強要されてもきっぱりと断ることである。仕方がないと内心では我慢して受け入れると、あなたの気持は相手に伝わらず、相手はあなたが気持よく受け入れてくれたと解釈してしまい、再び同じような要求を当然のごとくされてしまうことがある。

 

そうなると、一度受け入れたことを拒否することがむずかしくなる。それで人間関係がいやになる。だったら、最初から嫌なものは嫌だとはっきりさせておくべきである。それでお互いに気まずくなるのならしかたがない。我慢して付き合っても、今後ともうまくいくはずがない。そういう人とはお付き合いをしないことである。

 

世の中に自分を嫌う人は必ずいるものである。それでも自分を好いてくれる人も必ずいる。世の中の人すべてに嫌われる人はいない。そして世の中の人すべてから好かれる人もいないのである。

 

自分を嫌う人と親しくなることはないし、その人に嫌われないようにする必要もない。嫌われないようにと努力をすると、自分らしさがなくなる。自分に嘘をついて生きていかなければならない。それは大きなストレスになり、長くは続かない。

 

あなたは世の中の人すべてを好きだと感じているだろうか?好きな人もいれば嫌いな人もいるにちがいない。それと同じように、世の中にはあなたを好いてくれる人もいるし、あなたを嫌う人もいる。たまたまその人があなたを嫌っているだけのことである。自分を嫌う人に好いてもらおうとしないことである。好いてくれる人とだけ仲よくすればいいのである。

ハートふるメッセージ | 18:29 | - | -
141.物忘れをしなくなる方法
 

最近物忘れが多くなったという人は、私を含めてまわりに多い。年齢的なものもあるが、世の中が便利になって、人間のやるべき仕事を機械が代行してくれるようになり、あまり頭を使わなくてもよくなると、脳は機能を低下させてしまう。

 

例えば、昔は友達の電話番号や自宅、学校、会社や取引先、その他大切な人の電話番号などはよく覚えていたものである。今ではケータイが普及して、電話番号はすべてメモリーに記憶されている。だからどこへかけるにも指先の操作だけでつながってしまう。

 

電話番号を憶えていなくても電話がかけられるのというのは、便利この上ないのだが、その分、脳はいままでやっていた仕事をさせてもらえないため、記憶する能力はいっきにダウンしてしまうのである。

 

人の記憶は、記銘、保持、追想、再認というプロセスを経て完成する。

 

記銘とは、ものや人の名前など、記憶する対象となるものを明確に意識することである。すなわちこれは財布だ、手帳だ、通帳だなどと、そのものであることをきちんと確認することである。そして保持とは、記銘により確認した内容を、脳の神経細胞の中にストックすることである。これらはほぼ同時に行われる。

 

追想とは、記銘・保持した内容を思い出す作業であり、再認とは、思い出した内容を最初に記銘・保持した内容と同じであるかどうか確認して、再び記憶した内容を意識の上に上らせることである。

 

もっとわかりやすく説明しよう。運送業者が商品をトラックで倉庫に運び、保管する状況をイメージしてほしい。運ばれた商品を、記憶する内容とおきかえてみる。

 

倉庫に着いたらトラックから商品を降ろし、フォークリフトで倉庫の中へ搬送する。

 

この際、商品を運んできたトラックの運転手は、倉庫の係員に商品の内容と個数を伝え、納品書を渡す。これを受け取った倉庫の係員は、内容を確認して運転手に受領書を渡す。この行為が記憶では記銘ということになる。

 

次に、商品はフォークリフトで倉庫内に運ばれ、所定の位置に保管される。これが記憶では保持ということになる。

日を改めて商品が必要となった時、トラックの運転手は、先日受け取った受領書を持って倉庫にいき、倉庫の係員にみせて商品を運び出すことを伝える。倉庫の係員は受領書を見て商品を確認し、フォークリフトで倉庫から商品を運んでくる。これが追想にあたる。

 

そして、倉庫から運び出された商品が以前、トラックの運転手が持ち込んだものと同じものであることを確認する。これが再認にあたる。このようにして記憶は完成するのである。

この流れのどこかがうまくいかないと、記憶はできなくなる。

 

記憶の障害には、記銘の障害と追想の障害がある。記銘の障害は、記憶の入り口の障害であり、新しいことがらが憶えられないことである。追想の障害は、記憶したものを思い出せないという障害で、健忘といわれるものである。

 

倉庫のたとえでいえば、記銘障害は商品を倉庫に持っていっても、係員がいなくて商品が倉庫に入らないことであり、追想の障害は倉庫にあった商品をフォークリフトで外に運び出せないでいる状態である。

 

歳をとると、人は新しいものごとが理解できなかったり、憶えられなかったりする。古い記憶は残っていて、昔の話をさせるといきいきとして話し始めるが、これは追想の障害ではなく、記銘の障害なのである。しかし、認知症になると、最終的には追想も障害される。

 

物忘れをしないためには、この記銘、保持、追想、再認という記憶のプロセスを、スムーズに動かしていくことが大切である。

 

脳の神経細胞は活動を繰り返すことによって、その機能が強化される特徴がある。普通、物は使うと減ってしまいなくなるものであるが、脳は適切に使えば使うほど能力は増していくのである。脳の神経回路は使えば使うほど、スムーズに速く処理することが出来るようになるのである。

 

学習するということは、神経回路に痕跡を残すことであり、これが記憶となって蓄積される。物忘れをしなくなる方法は、物を憶える習慣を作ることであり、そのことで神経回路は活性化される。さらに記憶の出し入れを頻回に行い、神経回路が太くなることによって、記憶情報の流れが良くなるのである。

 

具体的には、忘れてしまったことをそのままにしていないで、思い出すまで根気よく努力することである。思い出せないからもういいやとあきらめないことである。思い出す練習を繰り返すことによって、記憶の回路が太くなり、物忘れが減っていくのである

ハートふるメッセージ | 12:36 | - | -
140.困難な問題の解決法
 

わたしたちは困難な問題に直面したとき、それを解決しようとしてもできないのではないかと思われると、まず、解決できそうにないと思われるその原因を探そうとする。こうではないか、ああではないかと、とにかくうまくいかない原因を見つけようと必死になる。これはこれで悪いことではないが、多くの場合うまくいかないことが多い。

 

もちろん原因が特定できて、それを取り除ければ困難は解消し、問題は消えるのであるが、原因が見つからなかったり、たとえ原因が特定できても、それが取り除けない場合もある。そんなときはどうしたらいいのだろうか。

 

解決策として一般的には、いま置かれている状況を正しく分析し、いま自分にできる最善のことをして、そこで一応の答えを出したことにするしかないのである。それでも問題が完全に解決しているわけではないので、不満や不全感が残るのは残念ながらしかたがない。

 

その後も何とか問題を完全に解決しようと躍起になる。そしていつか必ず答えが見つかるという思い込みがあるので、そのことをなかなかあきらめきれないものである。

 

わたしたちは小さいころ、学校でいろんなことを学ぶ。学習したことを試験で確認する。自分が出来なかった問題、間違ってしまった問題については、どこが間違ったのか、どこに気がつかなかったのか、模範解答を見ながら検討する。そして自分が間違ってしまった問題を改めて検討し、正解を導きだす。

 

わたしたちには、こういう考え方が小さいころから知らず知らずのうちに、こころの中に入り込んでいるのである。学校で出される問題には必ず正解があり、しかもそれは一つだけである。問題が出来なかったのは、単に自分の知識が足りなかったり、知らなかっただけである。だから、何故だろうと思って調べていけば、必ず答えに到達するのである。

 

このやり方を自然に抵抗なく受け入れているために、社会に出てからも、問題を解決する方法として同じ考え方をしてしまう。きっと模範解答があるはずだと。しかし、社会に出てから遭遇する問題には決して模範解答はなく、たとえあったとしても答えは一つではなく、複数ある場合もある。さらに答えの出ない問題もあるのである。

 

人生のいろいろな困難な問題に遭遇したとき、人はよくなぜこうなったのかと原因を探ろうとする。ああでもない、こうでもないと探し回る。その間、解決すべき問題はそっちのけでそうなった原因を追究する。

決断を求められているのに、原因が分からないと結論が出ないと思い込んでしまう。これがストレスになり、精神エネルギーを浪費してしまい、疲労困憊してしまうのである。

 

やっと少しずつ原因らしきものがみえてくる。でもそれは結論が出るものでも、解決できるものでもない。すると今度はできない理由を考え始める。こういう理由でできない、これは誰がやってもできない。だからわたしに出来なくても当然であると、言い訳を始める。

 

その言い訳はなるほどと思わせるような説得力がある。それなら仕方ないねと周りの人を納得させる。でも問題は解決していない。こういうやり方に慣れてしまうと、言い訳がうまくなり、自分の言い訳で周りを説得することで、場合によっては、問題がいかにも解決したかのような錯覚を起こしてしまうのである。

 

困難な問題を解決する方法の一つは、それをいくつかの小さな問題に分解してみることである。どんなに困難な問題も、複数の要因が複雑に絡み合っていることが多い。それらを小さな問題に分けてみると、その小さな問題は解決できることが多い。そしてそれを丹念にやっていくと、いつの間にか困難と思われていたものが、解決できてしまうのである。

 

もうひとつのポイントは、何故出来ないのだろうと考えることを止めて、どうしたらできるようになるだろうと考えることである。先に述べたように、何故だろうと考えると行き詰ることが多い。どうしたらできるかを考えるとみちが開けるのである。

 

何故だろうと考えると、原因が見つかる場合と見つからない場合がある。見つかった場合でも、その原因を取り除くことが出来る場合と出来ない場合がある。原因がわかってそれを取り除くことが出来る場合は何ら問題なく解決するので、困難な問題ではないのである。

 

それ以外の場合が困難な問題になるわけで、その場合、すぐさま原因を追究することを止めて、具体的にどうしたら良いのか、その方法を考えるのである。原因を特定できなくても、とりあえず状況を改善させる方法はいくらでもあるはずである。

 

解決するためのいろんなアイデアを出していくのである。こうしたらうまくいくのではないか、ああしたらうまくいくのではないか、いくらでもアイデアは出てくるものである。

 

出てきたアイデアを単なるアイデアに終わらせずに、どんなアイデアでもとにかく実行に移してしてみることである。一つのアイデアでうまくいかないことがわかれば、次のアイデアを実行するのである。これを繰り返していると、いつの間にかどんな問題も必ず解決するのである。

ハートふるメッセージ | 12:22 | - | -
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