もう過ぎてしまったが、4月8日はお釈迦様の誕生日であった。この日を「花祭り」といって、小さなお釈迦様の像に甘茶をかけてお祝いをすることになっている。
お釈迦様は紀元前463年、ヒマラヤ山麓にあった小国カビラヴァッツを統治していた釈迦族の王である浄飯王と摩耶夫人との間に生まれた王子であり、名前を「ゴータマ・シッダルタ」という。その誕生については、伝説的な話がある。
摩耶夫人がルンビーニの園で休まれているとき、夫人の右の腋から生まれたお釈迦様は、生まれてすぐに七歩歩いて右手を上げて天を指差し、左手で地を指しながら、『天上天下 唯我独尊 三界皆苦 我当度之』と宣言されたという。
インドにはカーストと呼ばれる身分制度があり、日本の江戸時代の士農工商のようなものであるが、もっと厳格である。さらに人間は神から生まれるという信仰があり、身分によって生まれるところが違うという。
カーストの一番上のブラーマン(代々神に仕える人)は神の頭から生まれ、二番目のクシャトリア(貴族や軍人)は神の腋から、三番目のバイシャ(農工商人)は神の足の股から、四番目のスードラ(奴隷)は神の足首から生まれるという。
お釈迦様はクシャトリアに属していたため、右の腋から生まれたということなのだろう。インドでは左手は不浄の手、右手は清浄な手とされる。また七歩歩いた理由は、六道輪廻から一歩進んでいることを表し、お釈迦様はもう輪廻転生をしないということを表現している。また七は永遠をあらわす数なのだとか。すべてがきわめて象徴的に表現されている。
人は生まれてすぐに歩くことも、しゃべることも出来るわけではないので、この逸話はお釈迦様の偉大さを強調するために、象徴的な物語として後世に作られた話であろう。
ただこの言葉はとても深い意味を持ち、考えさせられるものである。文字どおり解釈すると、「天上界においても、この現世においても、我独りだけが尊い存在である。」「三界すなわち欲界、色界、無色界は皆、苦であり、我がこれを救う。」ということなのだろう。
しかしお釈迦様ほどの偉大な存在であれば、そのように宣言されるとそうなんだと思ってしまう。これを独りよがりの考え方とか、他の人間は虫けら同然だとバカにしているとか思ってしまう人もいるかもしれない。
いろんな解釈があると思うが、どれが正しくてどれが間違っているということはできない。人によって考え方に基準があるからである。自分はこう考えるという自分の価値観に従って解釈すればいいのである。
このこととは別に自分という存在を考えたとき、自分の価値とは、いま自分が生きているということは、どういうことなのだろうと考えたことはあるだろうか。
お釈迦様ほどではないにしても、自分を尊い存在と思うことが出来る人はどれくらいいるのだろう。多くの人は自分の価値をそれほど認めていない。自分の価値は世間が決めるものだ。学校の成績や社会的地位、経済的優位性などで決まると思っていないだろうか。
それらは世間の評価基準ではあるかもしれないが、自分自身の絶対的価値ではない。自分自身の絶対的な価値は自分自身で決めるものである。
わたしたちは世間の評価をごく自然に、無批判に受け入れてしまっている。世間の暗示にかかっているといってもよい。その評価は本当に正しいのだろうか。評価の基準が偏っていないかよく考えてみる必要がある。
自分はこの世にひとりしかいない。あたりまえのことである。人は自分の五感をとおして外界を感知する。他の人の五感をとおして外界を知ることはできない。これも当然のことである。
何をいいたいかというと、すべての人は自分をとおしてしか世の中を知ることが出来ないということである。だから自分が死んでしまえば、世の中はなくなってしまうのである。つまり、自分次第で世の中はあったりなかったりする。
もちろん、客観的事実として考えるならば、自分が死んだあとも世の中はいつもと変わりなく存在しているだろう。しかし、同時に自分が死んでしまったら、自分にとっての世の中は存在しないのである。これは矛盾しているが、両方とも正しいのである。
ということは、この世界は自分ひとりのために存在すると思っていい。自分がこの世の中の主役なのである。他の人々は自分にとっての脇役にすぎないのである。そのように考えると、「唯我独尊」という言葉が意味を持ってくる。
わたしたちは誰もが尊い存在である。山本リンダさんの歌「ねらいうち」の歌詞に「この世はわたしのためにある」というのがあった。そう、この世はあなたのためにあるのである。