一休さんのとんち話の中に「屏風の虎」という話がある。ある日、日頃一休さんのとんちにやられっぱなしのお殿様が、今度こそ一休さんを懲らしめてやろうと名案を思いつき、一休さんをお城に呼びつけてこういった。
「これこれ一休殿、最近お城にある屏風の虎が、夜な夜な屏風から抜け出し、暴れ回って困っておる。何とかしてこの虎を退治してはくれまいか。」
屏風の虎が抜け出して暴れるなどあり得ないのだが、あえてそういって一休さんがどんな知恵を出すのかを試そうとしたのである。
一休さんは少しもあわてず、「分かりました。おまかせください。」といって、御家来衆に「頑丈な縄を用意してください。」と頼み、屏風のところに行くと、さすがに名のある絵かきの作品なのだろう、いまにも飛びかかってきそうな威厳をもった虎が描かれていた。
一休さんはねじりはちまきにたすきをかけ、縄をしっかりと持つと、「さあ、お殿様虎を屏風から追い出してください。見事、捕まえて縛り上げて御覧に入れます。」といって、いつ虎が出てきてもいいように構えてみせた。
するとお殿様は自分でいったことも忘れて、あわてて一休さんにこういった。「何をいうのだ、屏風の中の絵に描いた虎を、追い出せるわけがないだろう。」
すると一休さんはにっこり笑って「虎が屏風から出てこなければ、いくらわたしでも捕えることも、縛り上げることもできません。」と答えたという。
これを聞いたお殿様は、さすがは一休さんだ、また一本取られたと苦笑いしたというお話。
この話は、禅のこころをうまく表現している。わたしたちは日常生活の中でこれと同じことをやっていることが多い。まだ結果が出る前から、うまくいかなかったらどうしようと気を揉んでしまう。悪い結果を予想してしまう。そうすると悪い結果が起こる確率が高くなる。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句がある。怖いと思っていると何でも怖いものに思えてくる。怖いとまではいかなくても、取り越し苦労をして悪い結果を予想することは多いものである。
屏風から虎が出てくることは、あり得ないことと重々分かっている。それでも出てきたらどうしようとあわててしまう。冷静に考えればすぐにわかることであるが、不安が先行していると、見えないものが見えてくる。聞こえないものが聞こえてくる。取り越し苦労であることは承知していても、当人にとっては辛い現実として実感される。
ある時、悩みを抱えて困り果てた檀家の人が、お寺の住職に相談に行った。悩み事を延々と話し続けるが、住職は話を中断しないで、黙って最後まで聞いてからおもむろにいった。「いまあなたがいった悩みを全部ここに出してみせなさい。わたしがそれらを木っ端微塵にたたき潰してあげよう。さあここに出してみせなさい。」
相談にいった檀家の人はあっけにとられて、「そういわれても悩みはこころの中にあるもので、ここにもそこにも出せるというものではございません。」と答えると、住職は「そうかそうか、あなたの悩みは絵に描いた虎のようなものだな。いくら虎が怖そうに思えても、絵に描いた虎が飛び出してあなたを食い殺すことがないように、あなたの悩みもあなたから飛び出してあなたに被害をもたらすことはない。あなたの悩みはあなたがこころに描いた虎の絵のようなもので、現実には起こりようがないものだよ。」といったという。
「屏風の虎」の話では、檀家の人はお殿様にたとえられ、住職は一休さんにたとえられる。
かって1999年の7月に地球が滅亡するというノストラダムスの予言があった。信じた人も多いことだろう。しかし地球は滅亡することもなく、わたしたちはいまでも生きている。そしていまマヤ文明の暦から、2012年に人類が滅亡するという終末論もささやかれている。本当だろうか?
終末論の起源は聖書にある「ヨハネの黙示録」が一番古いものである。いままでにもたくさんの終末論があったが、どれも実現していない。わたしたちが不安を覚えるのは、わたしたちのこころに「取り越し苦労」という心理機制があるために、不安を先取りして心配してしまうからである。
「恐怖は常に、無知から生まれる。」とエマーソンはいう。知らないということが不安を招き、恐怖心をあおるのである。そしてチャーチルは「未来のことなど分からない。しかし我々には、必ず過去が希望を与えてくれるはずである。」という。
将来のことは誰にもわからないが、過去に困難を乗り越えた経験があれば、未来の困難もきっと乗り越えることができるのである。