ハートふるメッセージ

荒川区西日暮里の神経科・心療内科・精神療法・カウンセリング・薬物療法の倉岡クリニックがお送りする、心に響くメッセージブログです
149.こころが変われば
 

心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。」―これはウイリアム・ジェームスの言葉である。すなわち心が変われば、最終的には運命までも変わってしまうというのである。

 

わたしたちは日常の生活の中で、いまの自分の生活に満足している人はほとんどいないのではないかと思う。何とか今の自分を変えたい、将来の自分を変えてみたいと願う人がほとんどではないだろうか。

 

そうはいっても現実問題として、どのように自分を変えてみたいのかと問うとはっきり答えられない人がほとんどである。自分をどのように変えたいのかという具体的なビジョンというものを持っていない。さらに自分を変えるための具体的な方法や手段がわからないのである。

 

変わらなくてはいけない、何とかしなければと焦ってはみるものの、具体的に行動に移さなければ変化は起こらず、当然のことながらいつまで経ってもいまの現実がそのまま続いてしまう。そうなるとさらに焦ることになり、ストレスがたまり精神的に不安定になってしまう。

 

すると精神的に不安定になるよりは、変わらなくてもいまの現実を受け入れてしまったほうが精神的に安心できると思うので、結果的に何もしない、何もできない、現状維持ということで終わってしまう。

 

今の自分を変えるためには考え方を変える必要がある。しかし、考え方を変えるというと不安になる人がいるので、新しい考え方を導入する、今までの自分になかった考え方を、自分のこころに追加してみると考えると、不安にならなくて済むのではないか。

 

今までの自分はそのまま持っていても、新しい自分を創っていくことに何ら矛盾はない。何故なら、いままでの自分を壊してしまって、新たな自分を再構築するのではなく、いままでの自分とは無関係に、新しい考え方を自分に付け加えていくからである。そうすれば、自分の可能性をどんどん増やすことができる。限度はないのである。

 

人は生きているだけでいろんな体験や経験をするものである。自分の気持ちとは無関係に、自分の身の回りで勝手にいろんなことが起こってしまい、対処せざるを得なくなる。そして対処することの経験を積み重ねることで、自分を創りだしているのである。


この身の回りで起こった様々な体験や経験を、いままでの自分のやり方とは全く違う新しいやり方で積み重ねていけば、新たな自分の意思に沿った、新しい自分を創り上げていくことができるのである。

 

それでは新しい自分を創るためにはいったいどうしたらいいのだろうか。

 

人にはいろんな考え方があり、思考のパターンも様々である。体験や経験に対する反応の仕方にも個人差があり一概には言えないが、共通していえることはいままでとはまったく逆の選択をしてみるということである。しかもこころを快適に変えるためには、ポジティブな選択をすることである。いままで「NO」といっていたことに対して「YES」といってみるのである。

 

いままでの自分と違う選択をするとなると、どうしても心に抵抗が生じてくる。それはおかしい、受け入れられない、という気持ちが起きるのは当然である。そして受け入れるとしたら、それを納得するための根拠を求めようとするのがふつうの流れである。

 

しかし、そのようなこころの反応はストレスを生じて不快感を覚え、新しい自分を創造する足を引っ張ることになる。ここで悩み、思考が止ってしまうと、結局はもとの自分に戻ってしまうのである。

 

自分を変えたいと思うのなら、何の根拠もなくそうすべきである。そうしないと変わらないのである。いちいち変わるための理由や言い訳を考えていると物事が進まなくなる。

 

セオドア・ルーズベルトは「『できるか』と聞かれたらいつでも『もちろん』と返事することだ。それから懸命にやり方を見つければよい。」と言っている。

 

人は人生のいろいろな場面で選択を迫られるものである。なかなか決められなくて立ち往生することもあるだろうが、決断しなければ前に進めないのである。

 

決断した結果がうまくいかなければ、ダメージが小さいうちに、早急に次の決断をしなければならないのである。ヘンリー・フォードは「失敗とは、よりよい方法で再挑戦するいい機会である。」と言っている。

 

人生は選択して決断することのくり返しである。この回数が多ければ多いほどその人に生きていくための知恵や能力が付いてくるのである。

ハートふるメッセージ | 17:46 | - | -
148.びょうぶの虎
 

一休さんのとんち話の中に「屏風の虎」という話がある。ある日、日頃一休さんのとんちにやられっぱなしのお殿様が、今度こそ一休さんを懲らしめてやろうと名案を思いつき、一休さんをお城に呼びつけてこういった。

 

「これこれ一休殿、最近お城にある屏風の虎が、夜な夜な屏風から抜け出し、暴れ回って困っておる。何とかしてこの虎を退治してはくれまいか。」

 

屏風の虎が抜け出して暴れるなどあり得ないのだが、あえてそういって一休さんがどんな知恵を出すのかを試そうとしたのである。

 

一休さんは少しもあわてず、「分かりました。おまかせください。」といって、御家来衆に「頑丈な縄を用意してください。」と頼み、屏風のところに行くと、さすがに名のある絵かきの作品なのだろう、いまにも飛びかかってきそうな威厳をもった虎が描かれていた。

 

一休さんはねじりはちまきにたすきをかけ、縄をしっかりと持つと、「さあ、お殿様虎を屏風から追い出してください。見事、捕まえて縛り上げて御覧に入れます。」といって、いつ虎が出てきてもいいように構えてみせた。

 

するとお殿様は自分でいったことも忘れて、あわてて一休さんにこういった。「何をいうのだ、屏風の中の絵に描いた虎を、追い出せるわけがないだろう。」

 

すると一休さんはにっこり笑って「虎が屏風から出てこなければ、いくらわたしでも捕えることも、縛り上げることもできません。」と答えたという。

 

これを聞いたお殿様は、さすがは一休さんだ、また一本取られたと苦笑いしたというお話。

 

この話は、禅のこころをうまく表現している。わたしたちは日常生活の中でこれと同じことをやっていることが多い。まだ結果が出る前から、うまくいかなかったらどうしようと気を揉んでしまう。悪い結果を予想してしまう。そうすると悪い結果が起こる確率が高くなる。

 

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句がある。怖いと思っていると何でも怖いものに思えてくる。怖いとまではいかなくても、取り越し苦労をして悪い結果を予想することは多いものである。

屏風から虎が出てくることは、あり得ないことと重々分かっている。それでも出てきたらどうしようとあわててしまう。冷静に考えればすぐにわかることであるが、不安が先行していると、見えないものが見えてくる。聞こえないものが聞こえてくる。取り越し苦労であることは承知していても、当人にとっては辛い現実として実感される。

 

ある時、悩みを抱えて困り果てた檀家の人が、お寺の住職に相談に行った。悩み事を延々と話し続けるが、住職は話を中断しないで、黙って最後まで聞いてからおもむろにいった。「いまあなたがいった悩みを全部ここに出してみせなさい。わたしがそれらを木っ端微塵にたたき潰してあげよう。さあここに出してみせなさい。」

 

相談にいった檀家の人はあっけにとられて、「そういわれても悩みはこころの中にあるもので、ここにもそこにも出せるというものではございません。」と答えると、住職は「そうかそうか、あなたの悩みは絵に描いた虎のようなものだな。いくら虎が怖そうに思えても、絵に描いた虎が飛び出してあなたを食い殺すことがないように、あなたの悩みもあなたから飛び出してあなたに被害をもたらすことはない。あなたの悩みはあなたがこころに描いた虎の絵のようなもので、現実には起こりようがないものだよ。」といったという。

 

「屏風の虎」の話では、檀家の人はお殿様にたとえられ、住職は一休さんにたとえられる。

 

かって1999年の7月に地球が滅亡するというノストラダムスの予言があった。信じた人も多いことだろう。しかし地球は滅亡することもなく、わたしたちはいまでも生きている。そしていまマヤ文明の暦から、2012年に人類が滅亡するという終末論もささやかれている。本当だろうか?

 

終末論の起源は聖書にある「ヨハネの黙示録」が一番古いものである。いままでにもたくさんの終末論があったが、どれも実現していない。わたしたちが不安を覚えるのは、わたしたちのこころに「取り越し苦労」という心理機制があるために、不安を先取りして心配してしまうからである。

 

「恐怖は常に、無知から生まれる。」とエマーソンはいう。知らないということが不安を招き、恐怖心をあおるのである。そしてチャーチルは「未来のことなど分からない。しかし我々には、必ず過去が希望を与えてくれるはずである。」という。

 

将来のことは誰にもわからないが、過去に困難を乗り越えた経験があれば、未来の困難もきっと乗り越えることができるのである。

 

ハートふるメッセージ | 22:19 | - | -
147.どうしたらやる気が起きるのか
 

以前、「なぜやる気が起きないのか」というタイトルでお話をしたと思うが、紙面の都合で「どうしたらやる気が起きるのか」ということについての説明が不十分であった。今回はこのことについてもう少し詳しく説明をしてみたい。

 

やる気を起こす基本は何か。それは誰の心の中にもある何かをしたいという自然な欲求を、我慢したり抑えたりしないで、常日頃から大切にすることである。

 

何かをやりたいと思ったら、それがうまくいくかどうか分からなくても、とにかく始めてみることである。やりたいという欲求を満たしてあげることである。やりたいという欲求を押さえつけてはいけない。我慢してはいけないのである。この時点では結果のことは考えなくていい。心の中に生じた欲求を外に向かって発露することが一番大切なことなのだ。

 

もちろんやりたいことが法律に反することであったり、倫理に反することであったり、人の嫌がることや迷惑になるようなことであってはならないが、それ以外のことならば何をやっても自由なのである。

 

多くの場合何かを始めるときに、人はその結末を予測する。それは当然なことである。そして楽天的に考える人は自分に都合のいい結末を予測するが、悲観的に考える人は、自分に都合の悪い結果に終わるのではないかと考えてしまう傾向にある。

 

そして悲観的な人は、自分に都合の悪い結果が出ることが怖いので、行動を起こすことを躊躇する。だから悲観的に考える人はよけいやる気が育たないのである。

 

どんな人にとっても先のことは分からない。予測したり想像したりすることはできても、確実に期待どおりの結果が得られるとは限らないのである。それでも何かを始めなければ成功も失敗もないのであるから、とりあえず始めてみるしかないのである。

 

もしその結果がうまくいかなかったら次の対策を立てる。成功するための別の方策を検討するのである。そして新しいプランで再度やってみることである。

 

これは何回繰り返してもかまわない。制限はないのである。むしろ何回も繰り返すことによって、小さかったやる気が大きく成長するのである。なぜなら何回も繰り返すことによって、やる気をくり返し学習したことになり、やる気が大きく成長することになるからである。

やろうとしたことがうまくいかなくても、費やした時間と労力が無駄になることはない。うまくいかないことがわかれば、それも一つの成果なのである。その成果をもとに新しいプランを立てて、再度挑戦することができるのである。つまりその方法ではうまくいかないことがわかったという成果が出たのである。

 

何かをしようとするとき、どうしても抵抗感があることがある。嫌だなという思いが先行してしまうと、やらなくても良いための理由を考える。「明日やればいいや、今は必要ないことだ。」と決めつける。「今やる理由はない。」などと、やらないでいる自分を正当化する。

 

それはそれで、その場のストレスを回避したという意味では結構なことなのだが、そういう考え方をしてしまうと、やろうとする気持ちを自分自身で押さえ込んでしまったことになる。これではやる気が育たない。やる気を育てるためには、思いついたらやらない理由を考え付く前に実行に移し、行動を起こすことである。

 

わたしたちの脳は学習する能力を持っている。学習するということは、脳の記憶回路に電気を流すことによって、その回路に記憶の痕跡を残す作業である。脳の記憶回路に電気を流す回数が多くなればなるほど、記憶の回路は大きく、太く成長する。するとますますその回路に電気が流れやすくなるのである。

 

これはどういうことかというと、やる気という情報を受け持つ回路に電気を流し続けると、やる気という思いが大きく、太くなるということである。最初は小さなやる気でも、それをくり返し感じて思い続ければ、だんだんと大きなやる気がこころに現れるということである。

 

そしてやらないで済まそうという考えを持っていると、その回路が働き始め、さらにいつもやらないで回避することを繰り返していると、その回路が大きく太く成長して、やらないで済ませる考え方がこころに定着してしまう。

 

「やる気を出すようにいつも努力はしているのですが、どうしてもやる気が出ないんです。」という人がいる。努力してもやる気が出なければ、その努力のしかたが間違っているに違いない。脳の特性を理解して、その仕組みにあった努力のしかたをしなければ成果は期待できないだろう。

 

やる気を育てるためには、日常生活の中のささいなやる気に気がつくこと、それを結果を気にしないで実行にうつし、結果はどうであれ成果を出すこと。そしてそういう体験を数多くこなしていると、しだいにやる気が育っていくのである。

ハートふるメッセージ | 09:27 | - | -
146.七難八苦
 

信長や秀吉の時代、出雲地方を治めていた戦国大名尼子氏の家臣に、山中幸盛(鹿之助)という武将がいた。幾多の合戦で勇猛果敢に戦い、「太閤記」にはその活躍ぶりが記載されている。鹿之助は幼少時から家臣として尼子氏に仕えるが、その忠誠心には比類なきものがあった。

 

当時、尼子氏とともに中国地方の覇権を争っていたのは毛利氏であり、たび重なる合戦の結果、毛利元就の軍勢は尼子義久の居城である月山富田城を攻め落とし、ここに尼子氏は毛利氏の軍門に下ることになる。義久は幽閉の身となって、戦国大名としての尼子家は一旦途絶えてしまう。

 

しかし忠誠心に厚い鹿之助は、尼子家再興のために獅子奮迅の働きをして、一時的に再興を果たすが、長くは続かず戦いに敗れてしまう。二度目も失敗に終わり、三度目の再興を果たすための合戦の中、毛利軍に攻められ敗退して捕えられる。そして毛利輝元のもとに護送される途中、殺害されてしまうのである。鹿之助は武将としての価値を高く評価されていたため、このまま生かしておいたら何をやらかすか分からないという恐れが毛利側にあったのだろう。

 

子供の頃から尼子氏に仕えていた鹿之助は、主君に忠誠を誓うというより、尼子氏という家に対する忠誠心が強かったようである。三度目の再興を果たすときに、担いだ尼子勝久は毛利軍に包囲され自害したが、鹿之助は自分が尼子家を再興するから安心して自害してくれと言ったという。

 

山中鹿之助、本名は幸盛(ゆきもり)という。彼の人となりは一考に値するものがある。有名な彼の言葉で、「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと伝えられているが、満月ではなく三日月に祈った理由は、おそらく山中家に代々伝わる甲冑の兜の前立てが三日月であったことによるのではないかとおもわれる。

 

それはともかく、人が神仏に何かを願うときは、多くの場合自分に利益をもたらすことや苦痛から解放されることを願うものである。家内安全、商売繁盛などと願うのが普通であろう。しかし鹿之助は何故自分に苦痛を与えることを願ったのだろうか。

 

鹿之助が生きた時代背景もあるが、戦国時代は乱世である。力のあるものだけが生き残り、弱いものは否応なく切り捨てられ、それがあたりまえの厳しい時代であった。だから生き残って自分の思いを実現させるためには、才覚、英知、腕力など様々な力が必要であった。

 

それらの力を手に入れるためには、尋常な手段や、やわな気持ちでは到底身につけることが出来ない。質実剛健は武士の基本であるが、それだけでは他の武士と同じである。それ以上の力が必要なのである。

 

それではどうしたらいいのか。どのような戦も思うように展開しないことがある。むしろそのほうが多いのではないか。正攻法だけでなく奇襲攻撃やゲリラ戦も必要である。だから、どんな困難にも耐えうる能力が必要であり、それを得るためにはとてもできそうにないような困難な状況を克服しなければならない。

 

鹿之助はどのような困難も乗り越え、耐えうる力を身につけるために、あえて困難な状況に身を置いて、自分の精神と肉体を鍛えようとしたのである。それが七難八苦を与えたまえと祈った所以なのである。

 

鹿之助は一度目の再興に失敗して、毛利軍に囚われの身となるが、腹痛を訴え何度も厠へ行き、頃合を見計らい、監視の目を盗んで糞尿壺に潜み、糞尿まみれになりながら汲み取り口から脱走したという。何としても生き延びて、尼子氏再興を成就させたいという鹿之助の、凄まじい執念のようなものを感じさせるエピソードである。

 

若い人には少し説明が必要と思うが、昔は今と違って水洗トイレはない。排便、排尿したものはそのまま糞尿を貯める大きな壺にためておく。いっぱいになったら汲み取り口から柄杓で汲み出して、畑の肥溜めに貯めておく。そしてある程度発酵したら畑に撒いて肥料とするのである。

 

人が成長して能力を高めるためには、すでに出来てしまっていることをしても能力は高まらない。今までに出来なかったことを成し遂げてはじめて、いままで持っていなかった新しい能力が身につくのである。

 

それは初めてすることなので対処法が分からない。既存のノウハウが無いのであるから、思考錯誤の中で失敗を繰り返しながら、新しいノウハウを身につけていくしかないのである。そこで命を落とすこともあるだろう。しかしそれを乗り越えれば素晴らしい能力を手にすることが出来るのである。

 

『憂きことの なおこの上に積もれかし 限りある身の力試さん』

 

これは、もっとも鹿之助らしさを表現している力強い句である。いまも辛いことや苦しいことはいっぱい抱えているが、さらにもっと増やしてくれ、生きている限りどこまでやれるか、自分の力の限界を試したいのだと、鹿之助の雄叫びが聞こえてくるようである。

ハートふるメッセージ | 18:21 | - | -
145.交渉人
 

19977月に日本で公開されたアメリカ映画「交渉人」は、先日テレビでも放映されていた。見た方もあると思うが、あらすじは、現役の警察官でプロの交渉人が、殺人と横領の罪をきせられる。しかし彼は無実を訴え、自分の嫌疑をはらすために、人質を取って立てこもり、自分が指名したもう一人の交渉人を呼ぶように要求する。そしてその交渉人との交渉を介して自分の無実を証明しようとするものである。

 

この中で彼は、交渉人として絶対に使ってはいけない言葉をおしえてくれる。それは否定的な言葉や、少しでも否定を意味する言葉は絶対に使ってはならないということと、犯人の要求することを批判したり、分析したり、わずかでも拒否してはならないということである。

 

犯人はいら立っており、ほんの一部分でも拒否や否定の言葉を発すると、犯人は自分の要求のすべてが否定されたと思い込み、激高して感情的な行動を取ってしまう。すると人質が殺害される危険性が大きくなるという。

 

交渉人の仕事は人質を安全に救出することと、犯人を無事に逮捕することであるが、言葉の上では、犯人を安全に解放するという表現に変えて伝えるのである。

 

社会生活をしていく中で、人と人が交渉する場面は避けて通れない。交渉という言葉は相手を説得する手段として考えられやすいが、そうではなく交渉はお互いの言い分を通すための具体的な話し合いなのである。

 

一方的な説得は、説得される側が相手に負かされてしまったという気持ちになりやすいため、その場では説得されてもあとで気持ちが変わり、決裂してしまうことがある。

 

交渉するということは、譲歩できる部分と譲歩できない部分に分けて、譲歩できない部分を取り上げ、これに対してお互いが新たな提案を出し合いながら、譲歩できる部分に変えていく作業なのである。

 

交渉のためのノウハウを交渉術といい、その能力を交渉力という。交渉は人と人との対話であり、相手から有利な条件を引き出すための心理戦でもある。人の心を読むというと心理学者の仕事と思うかもしれないが、わたしたちも日常生活の中で無意識に行っていることである。

 

相手と交渉して譲歩を勝ち取る方法に、フット・イン・ザ・ドア・テクニック(段階的要請法)というのがある。これはセールスや営業のテクニックとして使われることがあるが、相手にこちらの要請を受け入れてもらうために、まず小さな要請をしてみる。それくらいの要請ならばのんでもいいと思われることである。

 

そしてそれを受け入れてもらったら、次に本来の要請をしてみる。人は最初の要請を聞き入れてしまうと、なぜか次の要請を断りづらくなるものである。もし本来の要請が大きすぎると思われる場合、その間にもう一つ小さな要請を入れてもいい。どちらにしろ、最初の要請を軽い気持ちで受け入れてしまうと、次に要請されたとき、最初の要請を承諾したという事実に、気持ちが拘束されてしまうのである。

 

以前のことだが、おいしい水をいつでも飲めるという浄水器を、設置させて欲しいというセールスマンが来て、「1ヶ月間無料でお使いください。お気に入っていただけましたらご購入していただき、お気に召さなければ引き取ります。もちろん設置料も1ヶ月間の使用料もいただきません」という。

 

1ヶ月間無料だからと軽い気持ちで承諾すると、きっと断れなくなると思ったのでお断りしたことがあるが、これはフット・イン・ザ・ドア・テクニックのいい例であろう。

 

これとは対照的なやり方にドア・イン・ザ・フェイス・テクニック(譲歩的要請法)というのがある。これは最初にまず、相手が当然拒否するだろうと思われるような大きな要請をして、それをわざと拒否させておいて、次にそれに比べたら小さなことと思われる本来の要請をすると、承諾を得やすいというものである。

 

たとえば家電量販店などでお客さんが「もう少し何とかならないか」と値引きを交渉すると、店員は電卓をたたいて、難しい顔をしながら、売り場の責任者と相談するといって、その場を立ち去り、しばらくして戻ってくると「わかりました。ご希望の金額で結構です。」と、いかにもお客さんが得をしたように演出をするが、これは本来店側が予定していた金額なのである。

 

会社での上司と部下との関係、学校での先生と生徒との関係、家庭での夫婦関係、兄弟、親戚との関係、それに友人関係など、様々な人間関係をうまく支障なく進めるために、交渉力は必要になる。そして、交渉術は単にコミュニケーションをとるというだけでなく、自分の要求と相手の要求をいかに調和させていくか、その中からお互いにとって一番有益な方法は何かを見出していくテクニックなのである。

ハートふるメッセージ | 12:24 | - | -
144.天上天下唯我独尊
 

もう過ぎてしまったが、48日はお釈迦様の誕生日であった。この日を「花祭り」といって、小さなお釈迦様の像に甘茶をかけてお祝いをすることになっている。

 

お釈迦様は紀元前463年、ヒマラヤ山麓にあった小国カビラヴァッツを統治していた釈迦族の王である浄飯王と摩耶夫人との間に生まれた王子であり、名前を「ゴータマ・シッダルタ」という。その誕生については、伝説的な話がある。

 

摩耶夫人がルンビーニの園で休まれているとき、夫人の右の腋から生まれたお釈迦様は、生まれてすぐに七歩歩いて右手を上げて天を指差し、左手で地を指しながら、『天上天下 唯我独尊 三界皆苦 我当度之』と宣言されたという。

 

インドにはカーストと呼ばれる身分制度があり、日本の江戸時代の士農工商のようなものであるが、もっと厳格である。さらに人間は神から生まれるという信仰があり、身分によって生まれるところが違うという。

 

カーストの一番上のブラーマン(代々神に仕える人)は神の頭から生まれ、二番目のクシャトリア(貴族や軍人)は神の腋から、三番目のバイシャ(農工商人)は神の足の股から、四番目のスードラ(奴隷)は神の足首から生まれるという。

 

お釈迦様はクシャトリアに属していたため、右の腋から生まれたということなのだろう。インドでは左手は不浄の手、右手は清浄な手とされる。また七歩歩いた理由は、六道輪廻から一歩進んでいることを表し、お釈迦様はもう輪廻転生をしないということを表現している。また七は永遠をあらわす数なのだとか。すべてがきわめて象徴的に表現されている。

 

人は生まれてすぐに歩くことも、しゃべることも出来るわけではないので、この逸話はお釈迦様の偉大さを強調するために、象徴的な物語として後世に作られた話であろう。

 

ただこの言葉はとても深い意味を持ち、考えさせられるものである。文字どおり解釈すると、「天上界においても、この現世においても、我独りだけが尊い存在である。」「三界すなわち欲界、色界、無色界は皆、苦であり、我がこれを救う。」ということなのだろう。

 

しかしお釈迦様ほどの偉大な存在であれば、そのように宣言されるとそうなんだと思ってしまう。これを独りよがりの考え方とか、他の人間は虫けら同然だとバカにしているとか思ってしまう人もいるかもしれない。

いろんな解釈があると思うが、どれが正しくてどれが間違っているということはできない。人によって考え方に基準があるからである。自分はこう考えるという自分の価値観に従って解釈すればいいのである。

 

このこととは別に自分という存在を考えたとき、自分の価値とは、いま自分が生きているということは、どういうことなのだろうと考えたことはあるだろうか。

 

お釈迦様ほどではないにしても、自分を尊い存在と思うことが出来る人はどれくらいいるのだろう。多くの人は自分の価値をそれほど認めていない。自分の価値は世間が決めるものだ。学校の成績や社会的地位、経済的優位性などで決まると思っていないだろうか。

 

それらは世間の評価基準ではあるかもしれないが、自分自身の絶対的価値ではない。自分自身の絶対的な価値は自分自身で決めるものである。

 

わたしたちは世間の評価をごく自然に、無批判に受け入れてしまっている。世間の暗示にかかっているといってもよい。その評価は本当に正しいのだろうか。評価の基準が偏っていないかよく考えてみる必要がある。

 

自分はこの世にひとりしかいない。あたりまえのことである。人は自分の五感をとおして外界を感知する。他の人の五感をとおして外界を知ることはできない。これも当然のことである。

 

何をいいたいかというと、すべての人は自分をとおしてしか世の中を知ることが出来ないということである。だから自分が死んでしまえば、世の中はなくなってしまうのである。つまり、自分次第で世の中はあったりなかったりする。

 

もちろん、客観的事実として考えるならば、自分が死んだあとも世の中はいつもと変わりなく存在しているだろう。しかし、同時に自分が死んでしまったら、自分にとっての世の中は存在しないのである。これは矛盾しているが、両方とも正しいのである。

 

ということは、この世界は自分ひとりのために存在すると思っていい。自分がこの世の中の主役なのである。他の人々は自分にとっての脇役にすぎないのである。そのように考えると、「唯我独尊」という言葉が意味を持ってくる。

 

わたしたちは誰もが尊い存在である。山本リンダさんの歌「ねらいうち」の歌詞に「この世はわたしのためにある」というのがあった。そう、この世はあなたのためにあるのである。

ハートふるメッセージ | 00:32 | - | -
143.認知療法
 

うつ病の患者さんを治療する際、認知療法という治療法を用いることがある。これはアメリカの精神科医アーロン・ベックが考案した精神療法の一つで、彼はうつ病の患者さんを診察しているときに、うつ病の患者さんには独特の思考パターンがあることを見出した。

 

うつ病の患者さんは、物事の捉え方や感じ方が独特であること、そしてその考え方がその患者さんの心を支配して、患者さんを苦しめていること。しかも患者さん自身がそのことに気づいていないこと。たとえそれに気づいていても、考え方を変えられないことである。

 

認知療法ではこの独特の考え方を認知のゆがみという。ゆがみという表現はあまり適切ではないと思うが、この特徴的な考え方をする人は、たとえばオリンピックでは金メダルを取らなければ意味がない、大会では優勝しなければ、2位もビリもいっしょであるなどと、両極端な考え方をする人、航空機事故のニュース映像を見て、自分が飛行機に乗ると墜落するのではないかと思う人、反対に良いことがあってもたまたまそうだっただけで、次はきっといやなことが起きると思い込んだり、予測したりする人、周りで悪いことが起きるとすべて自分に責任があると思い込む人、自分は何をやってもダメで能力がないと劣等感にさいなまれるばかりの人、何か一つでもうまくいかないことがあると、もうすべてがダメだと思い込んでしまう人などである。

 

この認知のゆがみに至った背景は、そのように物事をとらえるような考え方が、小さい時から知らず知らずのうちに身についてしまい、そのことに気がつかず、そのような考え方をくり返して、性格を形成してきたことによるのである。このような考え方の枠組みをスキーマというが、自分で気がつくことはむずかしい。

 

認知療法では、どんなときに問題が生じるのかをはっきりさせるために、うつ病の患者さん特有の考え方をしたことで、困ったことはなかったかどうか思い出してもらう。そしてそのときの気持ちや行動はどのようなものであったか調べてみる。

 

さらに、うつ病の患者さん特有の考え方が原因でうまくいかなかったことがあれば、他の考え方や行動に変えることが出来ないか検討する。もし出来るのであれば、試しにやってみる。そしてその新しい考え方や、やり方でうまくいくと感じられるのであれば、そのやり方をくり返し学習する。

 

これらの一連の過程を時間をかけながら、患者さん自身が治療に参加して、認知療法の意味を理解してもらいながら治療は進んでいく。さらに理解の程度に応じて宿題が出されたりするので、よりよく自分の気持ちが理解できるようになるのである。

 

人は朝から晩まで、一日中頭の中で何かを考えているものであるが、認知療法では、先ほど述べたスキーマを基盤として、何らかの原因で感情が大きく変化したときなどに、患者さんの頭の中に浮かんでくる考えを自動思考という。

 

たとえば、会社でささいなミスをしてしまい、上司に叱責されたとする。本来ならばそのようなミスを犯すとは考えられないのだが、現実にやってしまった場合、「こんな単純なミスを犯すとは、自分はいったいどうしたのだろう?」「どうすればいいのだろうか?」「何もわからなくなってしまった。」「こんなことではこれから仕事を続けていくことができないのではないか?」などの考えが脳裏に浮かんでくる。

 

これらの自動思考は、認知のゆがみととらえられ、治療の対象になるのである。上司は軽い気持ちで叱責したのだが、うつになりやすい性格の人は、極端に反応してしまう。それくらいのことで「仕事が続けられない」と思うのは行き過ぎであり、認知のゆがみと判断される。

 

認知のゆがみの多くは否定的な内容であり、これらが自動思考というかたちで、四六時中頭の中に浮かんでくると、気持ちは不安定になり、意欲もなくなって、ゆううつな気分がこころを支配してしまう。これらが一時的なものならまだしも、考え方の枠組みすなわちスキーマとして心の中に巣くっていると、考え方を変えない限り、うつ状態は延々と続くことになる。

 

うつ病の場合だけに限らず、自動思考は誰の心にも見られるものである。この自動思考の内容が否定的なものであれば気持ちは不安定になるし、逆に肯定的なものであれば気持ちは前向きになる。だとするならば、自動思考を意識的に利用すると、自分の気持ちを前向きな、肯定的なものに保つことができるようになる。

 

人は誰でも、意識して一つの考え方を四六時中くり返していると、はじめは心からその考え方を受け入れることは困難だと思っていても、時間がたつにつれて、その考え方があたりまえのように思えてくるものである。

 

いまのあなたの心は、いままでのあなたの考え方によってつくりあげられたものである。そして、これからのあなたがどうなっていくのかは、もっぱらこれからのあなたが、どんな考え方をするかによって決まっていくのである。

 

ハートふるメッセージ | 23:05 | - | -
142.人間関係の悩み
 

世のなかに人間関係で悩む人は多い。学校での人間関係で悩み、会社での人間関係で悩み、地域社会での人間関係で悩む。家庭では、夫婦関係、親子関係、兄弟姉妹関係、親戚同士の関係など、人が人と関わると人間関係がうまれ、そこに悩みが生じる。

 

人間関係の悩みはなぜ生じるのだろうか?

 

街で通り過ぎる人々どうしの間には人間関係の悩みは生じない。あたりまえのことである。お互いが知らないどうしであり、お互いが無関心であるから、人間関係そのものが生じないのである。しかし人が人と出会い親しい関係になると、お互いの感情がお互いのこころの間を行き来するようになる。ここではじめて人間関係が生まれるのである。

 

最初のうちは、お互いに相手を好意的にとらえ、優しさや親切心で満たされていて、いい関係である。しかし、時間がたち相手のことがだんだんわかってくると、好意的だった部分が、なぜか否定的な感情にすりかわってしまう。それは違うんじゃないのと、自分の考え方に合わないことが、お互いに相手の中に目立つようになるからである。

 

それでも、せっかくいい関係を築いたのだから、少々のことは仕方がないと思い我慢をする。そのうちまたいい関係に戻れるのではないかと期待する。しかし時間がたてばたつほどだんだんと気持ちが遠ざかっていく。こんなはずではなかったのにと思う。

 

最初に出会ったときは、話が合う、共通の趣味がある、好みが似ている、考え方が近い、何よりも生理的にぴったり合うなどと思ったのだろうが、それは間違ってはいない。ただしそれはその人の一部分であり、その人のすべてではないのである。人間である以上、他に違ったところを持っていても当然なのである。そんなことは理屈の上からはよく承知していたつもりでも、期待が裏切られたという感覚は残ってしまう。

 

人はこころの安らぎを求めるものである。人間関係でも安らげる関係が好ましいのであるが、現実にはそういう関係を持っている人は、はなはだ少ないのではないだろうか。

 

自分が持っている思いと相手が持っている思いは、当然、重なる部分と重ならない部分がある。重なる部分はそれでいいのだが、重ならない部分に対して、それを受け入れることができるかどうかがポイントとなる。誰でも嫌なことは嫌であるし、相手の中にある自分と重ならない部分については受け入れたくないし、我慢もしたくない。

それではいったいどうしたらいいのだろうか?


相手の持っているすべて、自分と重なる部分と重ならない部分と、いっさいがっさいを含めて、すべてを受け入れることができるだけの度量を持った人なら問題はない。そんな人はめったにいないものであるが、それが出来なくても対処法はある。

 

それが出来ない人の考え方として、受け入れられない部分は受け入れない、受け入れられる部分だけ受け入れることにすれば、問題は解決する。この際、受け入れられない部分についてはコメントしないことである。その部分は自分には理解できないことだが、その人にとっては必要なことなのだろうと解釈することである。

 

受け入れられない部分を良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか自分の尺度に合わせて判断しないことである。その人はそういう人なのだと理解して、自分が受け入れられる部分についてだけでお付き合いすればいいのである。すると気持ちが楽になる。

 

自分が受け入れられないことについて、もし相手から強要されてもきっぱりと断ることである。仕方がないと内心では我慢して受け入れると、あなたの気持は相手に伝わらず、相手はあなたが気持よく受け入れてくれたと解釈してしまい、再び同じような要求を当然のごとくされてしまうことがある。

 

そうなると、一度受け入れたことを拒否することがむずかしくなる。それで人間関係がいやになる。だったら、最初から嫌なものは嫌だとはっきりさせておくべきである。それでお互いに気まずくなるのならしかたがない。我慢して付き合っても、今後ともうまくいくはずがない。そういう人とはお付き合いをしないことである。

 

世の中に自分を嫌う人は必ずいるものである。それでも自分を好いてくれる人も必ずいる。世の中の人すべてに嫌われる人はいない。そして世の中の人すべてから好かれる人もいないのである。

 

自分を嫌う人と親しくなることはないし、その人に嫌われないようにする必要もない。嫌われないようにと努力をすると、自分らしさがなくなる。自分に嘘をついて生きていかなければならない。それは大きなストレスになり、長くは続かない。

 

あなたは世の中の人すべてを好きだと感じているだろうか?好きな人もいれば嫌いな人もいるにちがいない。それと同じように、世の中にはあなたを好いてくれる人もいるし、あなたを嫌う人もいる。たまたまその人があなたを嫌っているだけのことである。自分を嫌う人に好いてもらおうとしないことである。好いてくれる人とだけ仲よくすればいいのである。

ハートふるメッセージ | 18:29 | - | -
141.物忘れをしなくなる方法
 

最近物忘れが多くなったという人は、私を含めてまわりに多い。年齢的なものもあるが、世の中が便利になって、人間のやるべき仕事を機械が代行してくれるようになり、あまり頭を使わなくてもよくなると、脳は機能を低下させてしまう。

 

例えば、昔は友達の電話番号や自宅、学校、会社や取引先、その他大切な人の電話番号などはよく覚えていたものである。今ではケータイが普及して、電話番号はすべてメモリーに記憶されている。だからどこへかけるにも指先の操作だけでつながってしまう。

 

電話番号を憶えていなくても電話がかけられるのというのは、便利この上ないのだが、その分、脳はいままでやっていた仕事をさせてもらえないため、記憶する能力はいっきにダウンしてしまうのである。

 

人の記憶は、記銘、保持、追想、再認というプロセスを経て完成する。

 

記銘とは、ものや人の名前など、記憶する対象となるものを明確に意識することである。すなわちこれは財布だ、手帳だ、通帳だなどと、そのものであることをきちんと確認することである。そして保持とは、記銘により確認した内容を、脳の神経細胞の中にストックすることである。これらはほぼ同時に行われる。

 

追想とは、記銘・保持した内容を思い出す作業であり、再認とは、思い出した内容を最初に記銘・保持した内容と同じであるかどうか確認して、再び記憶した内容を意識の上に上らせることである。

 

もっとわかりやすく説明しよう。運送業者が商品をトラックで倉庫に運び、保管する状況をイメージしてほしい。運ばれた商品を、記憶する内容とおきかえてみる。

 

倉庫に着いたらトラックから商品を降ろし、フォークリフトで倉庫の中へ搬送する。

 

この際、商品を運んできたトラックの運転手は、倉庫の係員に商品の内容と個数を伝え、納品書を渡す。これを受け取った倉庫の係員は、内容を確認して運転手に受領書を渡す。この行為が記憶では記銘ということになる。

 

次に、商品はフォークリフトで倉庫内に運ばれ、所定の位置に保管される。これが記憶では保持ということになる。

日を改めて商品が必要となった時、トラックの運転手は、先日受け取った受領書を持って倉庫にいき、倉庫の係員にみせて商品を運び出すことを伝える。倉庫の係員は受領書を見て商品を確認し、フォークリフトで倉庫から商品を運んでくる。これが追想にあたる。

 

そして、倉庫から運び出された商品が以前、トラックの運転手が持ち込んだものと同じものであることを確認する。これが再認にあたる。このようにして記憶は完成するのである。

この流れのどこかがうまくいかないと、記憶はできなくなる。

 

記憶の障害には、記銘の障害と追想の障害がある。記銘の障害は、記憶の入り口の障害であり、新しいことがらが憶えられないことである。追想の障害は、記憶したものを思い出せないという障害で、健忘といわれるものである。

 

倉庫のたとえでいえば、記銘障害は商品を倉庫に持っていっても、係員がいなくて商品が倉庫に入らないことであり、追想の障害は倉庫にあった商品をフォークリフトで外に運び出せないでいる状態である。

 

歳をとると、人は新しいものごとが理解できなかったり、憶えられなかったりする。古い記憶は残っていて、昔の話をさせるといきいきとして話し始めるが、これは追想の障害ではなく、記銘の障害なのである。しかし、認知症になると、最終的には追想も障害される。

 

物忘れをしないためには、この記銘、保持、追想、再認という記憶のプロセスを、スムーズに動かしていくことが大切である。

 

脳の神経細胞は活動を繰り返すことによって、その機能が強化される特徴がある。普通、物は使うと減ってしまいなくなるものであるが、脳は適切に使えば使うほど能力は増していくのである。脳の神経回路は使えば使うほど、スムーズに速く処理することが出来るようになるのである。

 

学習するということは、神経回路に痕跡を残すことであり、これが記憶となって蓄積される。物忘れをしなくなる方法は、物を憶える習慣を作ることであり、そのことで神経回路は活性化される。さらに記憶の出し入れを頻回に行い、神経回路が太くなることによって、記憶情報の流れが良くなるのである。

 

具体的には、忘れてしまったことをそのままにしていないで、思い出すまで根気よく努力することである。思い出せないからもういいやとあきらめないことである。思い出す練習を繰り返すことによって、記憶の回路が太くなり、物忘れが減っていくのである

ハートふるメッセージ | 12:36 | - | -
140.困難な問題の解決法
 

わたしたちは困難な問題に直面したとき、それを解決しようとしてもできないのではないかと思われると、まず、解決できそうにないと思われるその原因を探そうとする。こうではないか、ああではないかと、とにかくうまくいかない原因を見つけようと必死になる。これはこれで悪いことではないが、多くの場合うまくいかないことが多い。

 

もちろん原因が特定できて、それを取り除ければ困難は解消し、問題は消えるのであるが、原因が見つからなかったり、たとえ原因が特定できても、それが取り除けない場合もある。そんなときはどうしたらいいのだろうか。

 

解決策として一般的には、いま置かれている状況を正しく分析し、いま自分にできる最善のことをして、そこで一応の答えを出したことにするしかないのである。それでも問題が完全に解決しているわけではないので、不満や不全感が残るのは残念ながらしかたがない。

 

その後も何とか問題を完全に解決しようと躍起になる。そしていつか必ず答えが見つかるという思い込みがあるので、そのことをなかなかあきらめきれないものである。

 

わたしたちは小さいころ、学校でいろんなことを学ぶ。学習したことを試験で確認する。自分が出来なかった問題、間違ってしまった問題については、どこが間違ったのか、どこに気がつかなかったのか、模範解答を見ながら検討する。そして自分が間違ってしまった問題を改めて検討し、正解を導きだす。

 

わたしたちには、こういう考え方が小さいころから知らず知らずのうちに、こころの中に入り込んでいるのである。学校で出される問題には必ず正解があり、しかもそれは一つだけである。問題が出来なかったのは、単に自分の知識が足りなかったり、知らなかっただけである。だから、何故だろうと思って調べていけば、必ず答えに到達するのである。

 

このやり方を自然に抵抗なく受け入れているために、社会に出てからも、問題を解決する方法として同じ考え方をしてしまう。きっと模範解答があるはずだと。しかし、社会に出てから遭遇する問題には決して模範解答はなく、たとえあったとしても答えは一つではなく、複数ある場合もある。さらに答えの出ない問題もあるのである。

 

人生のいろいろな困難な問題に遭遇したとき、人はよくなぜこうなったのかと原因を探ろうとする。ああでもない、こうでもないと探し回る。その間、解決すべき問題はそっちのけでそうなった原因を追究する。

決断を求められているのに、原因が分からないと結論が出ないと思い込んでしまう。これがストレスになり、精神エネルギーを浪費してしまい、疲労困憊してしまうのである。

 

やっと少しずつ原因らしきものがみえてくる。でもそれは結論が出るものでも、解決できるものでもない。すると今度はできない理由を考え始める。こういう理由でできない、これは誰がやってもできない。だからわたしに出来なくても当然であると、言い訳を始める。

 

その言い訳はなるほどと思わせるような説得力がある。それなら仕方ないねと周りの人を納得させる。でも問題は解決していない。こういうやり方に慣れてしまうと、言い訳がうまくなり、自分の言い訳で周りを説得することで、場合によっては、問題がいかにも解決したかのような錯覚を起こしてしまうのである。

 

困難な問題を解決する方法の一つは、それをいくつかの小さな問題に分解してみることである。どんなに困難な問題も、複数の要因が複雑に絡み合っていることが多い。それらを小さな問題に分けてみると、その小さな問題は解決できることが多い。そしてそれを丹念にやっていくと、いつの間にか困難と思われていたものが、解決できてしまうのである。

 

もうひとつのポイントは、何故出来ないのだろうと考えることを止めて、どうしたらできるようになるだろうと考えることである。先に述べたように、何故だろうと考えると行き詰ることが多い。どうしたらできるかを考えるとみちが開けるのである。

 

何故だろうと考えると、原因が見つかる場合と見つからない場合がある。見つかった場合でも、その原因を取り除くことが出来る場合と出来ない場合がある。原因がわかってそれを取り除くことが出来る場合は何ら問題なく解決するので、困難な問題ではないのである。

 

それ以外の場合が困難な問題になるわけで、その場合、すぐさま原因を追究することを止めて、具体的にどうしたら良いのか、その方法を考えるのである。原因を特定できなくても、とりあえず状況を改善させる方法はいくらでもあるはずである。

 

解決するためのいろんなアイデアを出していくのである。こうしたらうまくいくのではないか、ああしたらうまくいくのではないか、いくらでもアイデアは出てくるものである。

 

出てきたアイデアを単なるアイデアに終わらせずに、どんなアイデアでもとにかく実行に移してしてみることである。一つのアイデアでうまくいかないことがわかれば、次のアイデアを実行するのである。これを繰り返していると、いつの間にかどんな問題も必ず解決するのである。

ハートふるメッセージ | 12:22 | - | -
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