ハートふるメッセージ

荒川区西日暮里の神経科・心療内科・精神療法・カウンセリング・薬物療法の倉岡クリニックがお送りする、心に響くメッセージブログです
139.生きているだけでまるもうけ
いまやテレビ界の大御所である、明石家さんまさんの娘さんの名前は、「いまる」さんというそうである。変わった名前だなと思っていたら、ある時テレビでさんまさんが「いまる」という名前を付けた理由を話していた。「生きているだけでまるもうけ」というところから名づけたそうである。

「まるもうけ」とはいかにも関西の人らしい表現であるが、その意味するところは「ありがたい」とか「感謝している」とか、そういう気持ちなのだろう。つまり「生きているということは何と感謝すべき、ありがたいことなのだろう。」という気持ちを、心底感じているさんまさんなりの人生哲学なのではないだろうか。

生きている、だだそれだけで感謝の気持ちを感じることのできる人は、それまでの人生の中で、さまざまな苦労を味わい、もだえ苦しんで、その苦しみの中から這い上がってきた、いわゆる苦労人といわれる人たちに多い。

苦労や努力を嫌い、知恵を学びとろうとせず、自分の環境から逃げ出した人には、苦労して這い上がってきた人たちの流してきた、血と汗と涙の部分については決して理解できず、あの人はなんて幸せなのだろう、運が良いのだろうと、表面的な結果だけを見て思うのである。

人生で成功を収めた人たちは、必ず強い信念を持ち、幾多の困難を克服し、粘り強く努力してきた人たちであり、このような経過を踏まえないで、偶然成功に至ることは決してありえない。物事には必ず原因があって、それに伴う結果は必ず生じるのである。

聖書の中に『種と実』のたとえ話があり、イエスは「良い種をまけば、良い実が結ぶ。悪い種をまけば、悪い実が結ぶ。」といっている。これはジェームス・アレンのいう「原因と結果の法則」の原型であり、非常に分かりやすい。

種をまいて水をやる。まず若葉が出て、それから葉の数が増える。茎も大きくなり、枝が増えさらに大きくなる。水と肥料は欠かせず、雑草を取らなければ栄養を奪われてしまう。ほどよく日光にあてて、雨風からも守ってやらねばならない。やがて蕾ができて花が咲く。それから実がなるのである。種をまいて実がなるまでは、相当の時間がかかるのである。

これと一緒で、努力という種をまいても、努力の花が咲いて実がなるまで、相当の時間がかかることを理解しなければならない。

無事に努力の実がなるまで、怠け心という雑草がはびこって、貪欲な心や不純な欲望に、エネルギーを吸いとられることのないようにしながら、意欲という肥料を入れて、誘惑という雨風から、自分自身を守っていかなければならないのである。そのようにしてはじめて立派な努力の実がなるのである。

とうもろこしの種からは必ずとうもろこしができる。とうもろこしの種からかぼちゃができることはないのである。自然界のこの法則は誰もが知っているが、この同じ法則が人生にも当てはまることを、ちゃんと理解している人はとても少ない。

このように正しい思いの種からは、喜びや幸せという実がなり、誤った思いの種からは、苦悩や不幸という実がなるのである。

正しい思いの種から苦悩や不幸という実がなることはなく、誤った思いの種から喜びや幸せという実がなることはないのである。これはとても公平なことである。

いま自分が不幸であるとか、苦悩に満ちていると思っている人は、人生の何処かで不用意にも、不幸の種を蒔いてしまったに違いない。それが何処であるか、どのようなものであるか、いまさら探してみても始まらない。何故ならすでに実がなっているからである。

過去にさかのぼって種を植え替えることはできないが、これから正しい種をまき続けることができれば、必ず幸せの実を得ることができるのである。

いまの不幸の実はほうっておくと、自然に枯れて、腐れて土に戻ってしまうのである。触らないことである。これを何とかしようといじくり回していると、そのことが再び不幸の種になって、心の中で成長してしまう可能性がある。

『明日はどうにかなると思ってはいけない。今日手に入らないものは、どれだけ時が経っても、決して手に入れることはできないだろう。なぜならそれは、昨日もそう思ったことだからだ。』これはシチリアのことわざである。

明日はどうにかなると思うときには、どうにかなるための努力をしていなければならない。いまの不安から逃れるための、自分自身に対する言い訳として、どうにかなると思ってもそのための準備がなければ、どうにもならないのは明白である。

いますぐしあわせの種をまこう。しあわせの実は約束されている。
ハートふるメッセージ | 19:45 | - | -
138.門松は冥土の旅の一里塚
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」。これはご存知、一休宗純の「狂雲集」にある有名な句の一つである。そしてこれは一休さんらしいアイロニーでもあるが、さすがになるほどと思わせるうまい表現である。

私の年齢になるとこれからどう生きるかということももちろん大切だが、どんな死に方をすれば良いのかの方がむしろ気になってしまう。

正月から縁起でもないこととお叱りを受けるかも知れないが、昔は今のように満年齢を使うのではなく数え年を使ったので、正月になると誰でも一つ歳を取ったことになる。だからという訳でもないのだが、年の初めにあたって、歳をとることの意味、さらには生きることの意味、死ぬことの意味を、考えてもおかしくはないだろう。

誰でも歳をとることを返上することはできない。どんなに偉い人も、そうでない人も平等に歳をとる。金持ちも貧乏人も区別はない。さらに、生まれてきたときにすでに死ぬことが決まっているのであるから、じたばたしても始まらない。

私たちの生命というものはもともと与えられたものである。自分の意志でこの世に生まれ出でた人は一人もいないのである。気がついたらすでに生まれていたわけであるから、いくら生まれてこなければ良かったと思っても、もう遅いのである。つまり自分の意志というものは、自分の人生でありながら自分の生死については全く感知できないのである。

だとするならば、与えられた人生をいかに生きていくのか、どのような生き方が自分にとってふさわしいのか、さらにどのように死んでいったらいいのかなどを決めるのは、自分の意志によるのだから、このことに関しては、ありがたいことに自分に裁量権があるのである。

ここで勘違いしてはいけないことがある。人には生まれる、生まれないの自由はないが、生まれてしまったあと、自分の意志で死ぬことはできる。だから自殺するのは人の裁量権であると主張して、それを容認する人がいることである。過去10年、自殺者の数は3万人を超えているという。残念なことである。

よく人は、精神的に追い詰められると「こんなに辛いのなら死んだほうがましだ」という。長い人生には一度や二度ならず、そのように思ってしまうこともあるだろう。しかし、死んだ経験もないのに、どうして「死んだほうがましだ」といえるのだろうか。死んで生き返った人がいて、その人に死んだあとの世界の事を教えてもらったとでもいうのだろうか。

いや、そうではなくて、人が「死んだほうがましだ」と口にするときは、その人が死ぬことを人生最大の苦痛であると捉えているため、いま感じている辛さが、その死ぬことよりも辛いのだという心情を表現しているに過ぎないのである。

どの宗教も自殺については厳しく禁止している。わたしたちは人を殺してはならないように自分を殺してはならないのである。死後の世界がどのようなものであれ、現実の世界をないがしろにしてはならないのである。

自分の命は、自分が自分自身の意志で創り出したものではない、与えられたものである。ある時、偶然にも自分がこの世に存在しているのに気がつくのである。自分をこの世に送り出した存在とは、神といってもいい、創造主といってもいい、偉大な存在といってもいいが、わたしたちの五感では認知できない存在である。

もちろん、肉体は両親の遺伝子を受け継いで生まれてくるが、両親が最先端の科学技術を駆使して子どもを創り出したものではない。両親が子どもの遺伝子を創造したわけでもない。その両親もまた、さらにその両親から遺伝子を受け継ぎ生まれてきたのである。

わたしたちは生命、すなわち遺伝子というバトンを両親から受け取り、自分の人生を一生懸命走りぬいて、自分の子どもにそのバトンを渡して死んでいくのである。これは地球上に生命が始まってから現在に至るまで、営々と続けられている生命の営みである。わたしたちはそのように創られているのである。この現実を踏まえてから生きる意味を問わなければならない。

生きることの意味や死ぬことの意味は、人によって違うのは当たり前であるが、どのように生きるのか、どのような死を迎えるのか、自分なりの考えを持っていることは、とても大切なことである。

『たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日わたしはりんごの木を植える。』

これは16世紀、宗教改革を行い、ルーテル教会を創設したマルチン・ルターの言葉である。理屈っぽい人からすると、明日世界が滅んでしまうのに、今日りんごの木を植えても意味がないということになる。

しかしそうではなく、りんごの木を植えるという作業は、将来に希望を持つことの象徴である。いまがどんな辛い状況であろうとも、将来に希望を持ち続けることが、いかに大切であるかを教えているのである。
ハートふるメッセージ | 12:26 | - | -
137.しあわせとは
 

若い人の中で知っている人も多いと思うが、加山雄三さんの「君といつまでも」という歌の中のセリフの言葉に「しあわせだな〜。ぼかー君といるときがいちばんしあわせなんだ。」というのがある。私たちがしあわせだな〜と感じるときはいったいどんなときなのだろう。

 

もちろん、この歌のように愛し合っている二人が一緒にいて、ともに時間を過ごすときには、このセリフのような「しあわせ感」に浸ることができるだろうし、大切にしている家族と過ごす時間や、こころを許した大親友と共通の話題で盛り上がり、お互いの気持ちが通じ合えたときなどにも、「しあわせ感」に浸ることができるだろう。

 

そのほかにも欲しいものが手に入ったり、行きたいところに行けたり、やりたかったことがやれたりといった願望がかなったりしたときには、しあわせを感じることができるにちがいない。

 

ところが、世の中にはしあわせを感じたことがない、そんなものは映画や小説、テレビドラマの中の虚構の世界のことだと思っている人がいる。現実の世界でも人付き合いの中で、しあわせそうなふりをしなければならないときに、しあわせそうに振舞うことはできる。でも心底しあわせだな〜と感じているわけではないという。

 

このような人たちでも、ときには「うれしい」とか「楽しい」とか「気持ちがいい」などと感じることもあるだろう。「しあわせ感」はこれらの陽性感情を強く感じたときに現れるものなので、そのような人たちが少しでも「うれしい」「楽しい」「気持ちがいい」と感じるならば、少しだけ「しあわせ感」を感じていることになるのではないだろうか。

 

しかし、このように人によってしあわせの感じ方が違うのは何故なのだろうか。一つには、それは人によって感受性が違うからといえばそうなのだろうが、もっと広くとらえると性格の問題ということになる。

 

性格は、持って生まれた気質と生育環境によって作られるが、しあわせを感じやすい人は、陽性感情を基本的な感情として持っており、しあわせを感じにくい人は、陰性感情を基本的な感情として持っている人といえる。

 

陽性感情とは「うれしい」、「楽しい」、「気持ちいい」などの良い気持であり、陰性感情とは「悲しい」、「辛い」、「不愉快」などのいやな気持ちのことである。

 

また、しあわせ感は絶対的なものではなく、あくまで相対的なものである。だからだれでも自分の人生の中でしあわせを感じるときと、そうでもないときがある。また人と比べて自分はしあわせなほうだとか、人と比べて自分は不幸だとか感じるときもある。

 

あなたはいままでの自分の人生を振り返ってみて、自分はどちらかというとしあわせを感じにくい方だと思ったら、どうしたらいいのだろうか。しあわせを感じやすくなる方法はあるのだろうか。

 

先に述べたように、「しあわせ感」は陽性感情を強く感じたときに現れるものなので、陽性感情を基本の感情にすれば、しあわせを感じやすくなるということになる。でもそう簡単にはいかない、陰性感情を基本感情にしている人にとって、性格を変えることは難しいといわれそうだ。

 

しかし、性格は持って生まれた気質と環境によって作られるものであり、もって生まれた気質は、なかなか変わらないかもしれないが、自分の性格に影響を与える環境は変えることができる。そして、環境が変わると、変わらないと思っていた、持って生まれた気質も影響をうける。

 

環境とは、自分の周りにあって自分の考えや行動に影響を与えるものすべてであり、その環境の影響を、自分の中に取り入れるか、取り入れないかを決定する基本的な考え方は、もって生まれた気質によるということになる。

 

だから環境に影響を受けた気質は、その影響を取り込むことによって新しい気質に生まれ変わることができるのであり、その新しい気質が再び環境の影響を受けて、さらに新しい気質に成長していくのである。

 

そう考えると、性格は変わるというよりは人が生きているというだけで、自ら成長するものであると定義するほうが正しいといえる。だから、陰性感情を基本感情にしている人が陽性感情を増やしたいとおもえば、陽性感情を感じやすい環境作りをするように心がければ良いということになる。


山のあなたの空遠く「幸(さいわい)」
()住むと人のいふ。ああ、われひとと(尋(と)めゆきて、涙さしぐみかえりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸」住むと人のいふ。−上田敏訳 『海潮音』より。

 

ドイツの詩人、カール・ブッセの有名な詩「山のあなた」によると、幸せは山のあなたにあって、手の届かないもののように表現されているが、しあわせは何処か遠くにあるのではなく、手の届くところ、すなわち自分のこころの中に存在するものであって、自分の考えや行動によって、作り出していくことができるものなのである。

ハートふるメッセージ | 17:19 | - | -
136.コロンブスの卵
 

西暦1492年クリストファー・コロンブスは、旗艦サンタ・マリア号でアメリカ大陸(正確には西インド諸島のサン・サルバドル島)に到達した。コロンブスの航海の目的は、西回りのインド航路を発見することであったが、実際に到達したのはアメリカ大陸からは遠く離れた島だったのである。

 

しかし、彼は新大陸を発見した功績を認められて、それを祝う晩餐会がスペインの王宮で開かれた。当時すでに地球が丸いという説が有力であったので、コロンブスの成功を妬む人々から「西へ向かって航海すれば、誰でも陸地を発見できた。」と揶揄されてしまった。

 

これに対してコロンブスは一計を案じ、テーブルにあったゆで卵を手にとり『誰かこの卵を立てることができる人はいませんか』と人々に問いかけた。なぜそんなことをいうのか不思議に思いながら何人かの人がチャレンジしたが、誰も卵を立てることができなかった。

 

コロンブスは、卵の端を軽くテーブルに打ちつけ凹ませて卵を立てて見せた。そんなことをすれば誰だってできるではないかといわれると、『皆さん、誰かがやった後になって、そんなことは雑作もないことだ、というのはたやすいものです。』といって妬む人々をけん制したという。この話については諸説があり真偽のほどは定かではないが、それはともかく、とても含蓄のある逸話である。

 

この話の意図するところは、「後になってみると、誰にでもできる事柄であっても、最初にやるときは困難が伴い勇気がいる。」ということであろう。さらに転じて発想の転換が大切であるという教訓にもなっている。

 

すなわち、卵を立てるという行為を文字どおりとらえて、何の工夫もないまま立てようとするような常識的な発想では不可能であるが、コロンブスがやったように端を凹ませてくぼみを作り安定させるという、誰も思いつかない発想に気がつくか気がつかないかで、物事が成就するかしないかの分かれ道になるという、新たな教訓ともとらえることができる。

 

私たちは一般的に常識というものにとらわれる傾向があるが、何か新しいことを成し遂げるためには、いままでとは違った考え方やアイデアが必要になってくる。そして人は何か新しいことをやろうとすると、必ずといっていいほど困難にぶち当たるものである。しかもそれを乗り越えるためには、常識的な考え方が通用しないことが多い。

何か良いアイデアはないだろうかと必死になって探し求めるが、そう簡単に見つかるものではない。

それは誰でも、その人だけが持っている考え方の枠組みがあるからである。つまり、小さい頃から教え込まれたこと、体験したこと、テレビや雑誌などのマスメディアを通して、周りの大人たちから知らず知らずのうちに吹き込まれたことなどを、気がつかないまま自分の考え方として、つまり常識として身につけてしまっているのである。

 

だから、それを疑ったり変えたりすることは、自分の精神的なよりどころを不安定にすることになり、自分の存在そのものを危うくするものと捉えてしまうため、なかなかそれと違った、新しい考え方を受け入れることができないものである。

 

しかし、新しい事態に対処するには、自分の持っている考え方の枠組みを再検討する必要がある。この枠組みを壊すというのではなく、新しい事態に対処するための、新たな考え方を自分の心に追加するという発想が必要なのである。

 

もし、いま持っている心の枠組みを壊して新しく再構築するとなると、いままでの自分の考え方をいったん壊してしまわなければならないと思ってしまうため、自己の存在の危機を感じてしまい、精神的に不安定になってしまう。

 

そうではなく、新しい考え方も今までの考え方も同じ価値を持って大切に扱っていけばいいのである。お互いが矛盾していてもその存在を認め合うことに何ら不都合はない。

新しい考え方と今までの考え方の、どちらかを正しいとすれば、矛盾する考え方は間違いということになる。
しかし、価値判断の基準を、正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとかではなく、自分にとって快適なものか不愉快なものかにすれば、基準とする根拠が違ってくるため、矛盾は生じないのである。これが考え方の新しい枠組みである。

この誰もが持っている考え方の枠組みを、これまで想像だにしなかったものに切り換えると、世界が変わって見える、新しい自分が創造されるのである。

 

かってライト兄弟は、鳥のように大空を飛びたいという願望を抱いた。そしてそれを願望のままで終わらせず、どうしたら鳥たちのように空を飛べるのだろうかと考えた。いろいろ思いを巡らせて、飛ぶための様々なアイデアを考え、それを飛ぶための技術に昇華させていった。そして19031217日、世界で初めて、12馬力のエンジンを搭載したライトフライヤー号による有人飛行を成功させたのである。

 

その時代に人々にとって、機械が空を飛ぶなんて有り得ないというのが常識であった。当時の知識人、大学教授、著名な新聞も科学的に不可能であるとコメントしている。常識にとらわれていたからである。個人も社会も常識に捉われていたら、成長も進歩もないのである。

ハートふるメッセージ | 18:12 | - | -
135.夏の思い出
 

夏休みが終わり、2学期が始まる頃になると、小学生のときの夏休みの宿題のことを思い出すことがある。いまの小学生のことはよくわからないが、私たちの時代は「夏休みの友」「絵日記」「工作」の3つの定番の宿題が出されて、それが悩みの種であった。

 

宿題なんか早く片付けてしまえばいいものを、遊ぶことばかり考えて、ついつい後回しにしてしまい、母親に「何でもっと早く済ませておかなかったの、まったく!」と怒鳴られながら、29日、30日、31日の3日間、ほとんど眠る時間もとれず、泣きながら机に向かったことを思い出す。

 

「夏休みの友」は各教科の基本問題を集めたもので、時間さえあれば何とかなるが、「絵日記」にはその日の天気を記入する欄があり、当然記録していなかったので分からない。夏休み中の新聞を集めるだけ集めて「お天気欄」を参考に書いたが、この欄にはあくまでその日の天気予報が書いてあるので、もし予報が当たっていなければ、ウソがばれてしまう。

 

「絵」と「日記」は適当に創作してしのいだが、「工作」はとうとう間に合わず、母親に作ってもらった凧を、体育館で開かれた「夏休み工作展」に出品してしまった。

 

いまとなっては懐かしい思い出であるが、あんなに時間があったのに、なぜやらなかったのだろうかと考えてみた。

 

すぐに出た答えは、楽しいことは禁止されてもやろうとするが、嫌なことはできるだけしたくない、やらなくてはいけないことも、嫌なことならできるだけ後回しにしたいという、だれでもが普遍的に持っている、素直な気持ちなのではないかということであった。

 

これは人の自然な心理として、理解してもらえるであろう。でもこのままではいけないとしたら、どのような解決策があるのだろうか。やりたいことをやることは、ちっとも苦にならないが、やりたくないことをやるためには、何か秘策みたいなものはないだろうか。

 

でも、やりたくないことは、いくら考えても、やりたくないという結論しか出ない。しかし、やりたくないことを、やりたいことに変えることができれば、やりたくないことも、やりたいことになり、結果的にはやることができるようになるのではないか。

 

それは詭弁だといわれるかもしれないが、できないことではないだろう。ではどういう方法があるのだろうか。

多くの場合、ものごとをやりたくないという結論を出すときには、まだそのことをやっていないことがほとんどである。きっと嫌なことにちがいないという先入観をもち、始める前からそのように決めつけていることが往々にしてある。

 

まずは何事も始めてみることである。始めてしまえば、始める前に持っていた先入観や嫌なイメージは変わっていくものである。意外に楽しいではないかと思うこともある。

 

さらにやる気を出すために大切なことは、どんなにやりたくないことでも、いったんそれを始めたら、やりたいという気持ちが湧き起こってくるまで、どんな理由があろうと、起こした行動を中断しないことである。やりたくないことをやり続けていると、不思議にやりたくないという気持ちは薄らいでくる。

 

なぜなら、人は自分がやっていることを正当化し、自分がやっていることは正しいことだと思い込む傾向があるからである。だからやりたくないことをやり続けていると、自分にとって正しいことをしていないという思いがして、気持ちに違和感が生じる。

 

すると人は自分がやっていることが、やりたくないことであってはならないという心理が働き、やりたくない気持ちが、しだいにやりたい気持ちにすりかわってしまうのである。

ただし、これは自尊心の高い状態のときほどその傾向が強くなるが、うつ状態のときなど、自尊心が病んでいる時は、かえってストレスになることがあるので注意が必要である。

 

このように行動を継続することにより、人は行動することを学習する。行動の内容は何であっても、行動すると意欲が湧いてきてさらに心が成長する。すなわちそれが、やる気を起こす一番の方法なのである。

 

そしてやる気という「気」を、心に感じている時間をできるだけ長くすることで、やる気を学習し、それを心に記憶させるのである。

 

何かを始めたら継続すること、途中で止めないこと、止めたい衝動に駆られても、決して中断しないことである。多くの場合、疲れるからとか、これ以上やっても意味がないとか、他にやることがあるからとか、止めるための言い訳を考え、止めてしまった自分の行為を正当化しようとするものである。

 

しかし、この誘惑に負けて行動をやめてしまえば、一時的には楽になるかもしれないが、そのあとしだいに挫折感を感じるようになり、止めたことを後悔して、自分に自信がなくなってしまう。止めてしまうと、やる気を身に着ける機会をなくしてしまうのである。

ハートふるメッセージ | 10:43 | - | -
134.泣くから悲しくなる
 

アメリカの心理学者ウイリアム・ジェームズによると、人は『悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのである。』という。人はだれでも悲しくなると涙が出てくる。これはしごくあたりまえのことであるが、彼はそのあたりまえのことの裏にあって、人の心の奥深い所に存在する心理法則を発見したのである。

 

一般的には、「悲しみ」という感情が「涙を流す」という行為を引き起こすが、逆に「涙を流す」という行為が、「悲しみ」という感情を引き起こしてしまうことがあるという。これはいったいどういうことなのだろうか。

 

みなさんは疑問に思ったことはないだろうか。たとえば役者さんが、演技とはいえ悲しい場面で涙を流すといったシーンがあったとする。そのときの役者さんは、心の中で何を考えてその役を演じているのだろう、演技の最中の気持ちはいったいどういうものだろうかと。

 

役者さんと知り合いではないので、聞いてみることはできないが、おそらく、悲しい場面では、悲しい気持ちになるよう、自分の中の悲しい経験や思い出を、演技に重ね合わせて、頭に浮かべるように意識しているのではないかと思う。そして涙が出てくるとそれが増幅されて、さらに悲しさが増し、迫真の演技ができるのだろう。

 

以前、人は知識や概念だけでなく、感情や動作も記憶されるという話をしたことを思い出してほしい。人が物事を記憶するときには、そのことを写真のように映像として記憶する場合と、連想することによって記憶する場合があるのだが、ここでは連想することによって記憶する場合を考えてみよう。

 

例えば、ちょっと古いが、大阪万博といえば岡本太郎の太陽の塔、新幹線開通といえば東京オリンピック、最近では麻生太郎といえば秋葉原、民主党といえば政権交代という言葉を思い浮かべ、連想してしまう。

 

そして、これらの言葉は、例えば政権交代といえば民主党と言いかえることも、すなわち逆に連想することも、特に不自然ではないのである。

 

この論理でいけば、「悲しみ」という感情が「涙を流す」という行為を連想し、思い出すと同じように、「涙を流す」という行為が「悲しみ」という感情を連想し思い出すのも、特に不自然ではないのである。この論理が分かると、他のことへも応用が利く。

人は楽しいときには自然に微笑み、笑いがでてくるものである。これもあたりまえのことである。だから先に述べた論理によれば、たとえ辛いときでも、意識して笑うという行為をすると、楽しいという感情が連想され、思い出されるのである。

 

辛いときや苦しく憂鬱なとき、とてもそんな気にはなれないという気持ちも、分からないわけではないが、そこをあえて笑ってみる、鏡にむかって笑顔を作ってみると、いままでそんなことは信じられないと思っていた人も、きっと自分の感情の微妙な変化に気がつくはずである。

 

さらにいまの自分は決して幸せではないと思っている人でも、自分は幸せであると意識して思い込む行為を繰り返していると、幸せな感情が少しずつ湧いてくるのである。どうしてもそのように思えないときは、次のように考えるといい。

 

もともと幸せの感情は相対的なものである。つまり、これ以上不幸なことはないというところから、最高に幸せで、こんなに幸せでいいのだろうかという幸せまで、アナログに変化するものである。

 

だから、たしかにいまの自分は幸せではないかもしれないが、昔の辛かったときに比べれば、幸せな方かもしれない。いまの自分は幸せではないかもしれないが、あいつよりは幸せなのではないか、などと思ってみると、いまの幸せの感情を感じやすくなるだろう。

 

「あの死ぬほど辛い状況を、自分の力で乗り越えてきたのだから、いまの辛さなんて辛いうちには入らないよ。」という気持ちになれば、いまの幸せを実感できる心が、出来上がるのではないだろうか。そして、それに対して感謝の気持ちを持つことで、幸せの感情を、心に定着させることができるのである。

 

いまはもうなくなってしまったが、飯田橋にあった日本医大第一病院で、内科の入院患者さんを臨床講堂に集め、講堂の演壇を高座にしつらえて、林家木久蔵一門の落語を聞いてもらい、おおいに笑ってもらったことがある。

 

もちろん研究のためであるが、落語を聞く前と聞いた後で、患者さんの血液中の免疫細胞の量をはかったところ、落語を聞いて大いに笑った後では、免疫細胞の量が格段に増えていたという。つまり笑うことによって、病気にかかりにくい体になったということである。

 

「笑うかどには福来る」という。笑いは心だけでなく、身体も健康にしてしまうのである。

ハートふるメッセージ | 16:00 | - | -
133.言葉の罠
 

「人はパンのみにて生きるものにあらず。」これは新約聖書の中に出てくる、イエスの有名な言葉である。そしてこの言葉は、イエスが荒野で40日間断食をし、空腹を覚えた頃、サタンがやってきて「お前が神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ。」と問いかけた言葉に対して、イエスが答えたものである。

 

さらに続けて、イエスは「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである。」とも言っている。この「パン」は、人が健全な身体を保つために必要な食物全般を表し、そして「神の口からでる言葉」は、人が健全な精神を培うために必要な人生の指針を意味している。

 

人も他の生物も、生きるためには食べ物が必要であることは言うまでもない。しかし、人が人として生きるためには、それだけでは不十分であるとイエスは言う。

 

生き物の頂点に立つ人間と他の生物との大きな違いは、人は持って生まれた本能だけではなく、生きるために必要なあらゆる情報を、適切に取り込み、加工・処理してその結果を生かし、活用する能力に長けていることである。

 

そして、これらのことができるのは、人が言葉を持っているからなのである。

 

言葉には良い言葉と悪い言葉がある。言葉には魂が宿るという。良い言葉も悪い言葉も人に大きな影響を与える。例えば、喜び、感謝、希望、満足、愛などに伴う言葉は人を幸せにし、悲しみ、罪悪感、恨み、嫌悪、非難、怒り、恐怖などに伴う言葉は人を不幸にするのである。

 

物事がうまく行かなかったり、自信がなくなったときや、窮地に陥ったときなど、人はそこから逃れるために必要な情報を得ようとする。適切な情報が手に入って、窮地を脱することができれば問題ないのだが、そうでない場合も多いものである。

 

窮地をなかなか脱することができないと、誰かに頼ろうとする。そしてその誰かの助言が不適切であっても、なかなか気がつかず、間違った判断をしてしまい、結果的にもっと窮地に追い込まれてしまうこともある。

 

さらに助言してくれるその誰かが、善意の人ばかりとは限らない。悪意ある人に捕まってしまうと、いいように操作され利用されて、ますます窮地に追い詰められてしまう。


よく「あなたのために言っているのよ。」とか、「そうしたほうがあなたのためだよ。」とか「あなたはこうすべきだ。」とアドバイスしてくれる人がいるが、果たしてそうなのか。その人は私のことをどれだけ知っているのか。

 

私自身より私のことを知っているような口ぶりで、感情的にもならず、権威をもって断言されると、自分に自信がない人にとっては、ついそうかもしれないと思ってしまう。

 

しかし、冷静に考えてみると、自分の人生をどう生きるか、決めるのは自分自身なのである。「あなたのために」という言葉が本当ならば、その提案を受け入れてもいいかもしれないが、その人の行動を観察していると、その人の提案を受け入れることによって、私のためというより、その人の利益の方が大きくなることを見出すことがある。

 

「あなたのために」ではなく「自分のために」あなたを利用しようとしているのである。

 

このようなことは枚挙にいとまがない。他人を操作しようとする人の言葉にはいくつかのパターンがある。そして操作されやすい人の性格にも一定のパターンがある。そして操作する人は、操作されやすい人をするどく嗅ぎ分ける天性の能力をもっている。

 

操作されやすい人は、多くの場合自分に自信がなく、自分の決断を他人の評価で決めようとする。そこにつけ込まれる言葉が、「もしあなたがそんなことをしたら、世間はどう見るでしょうね。」である。

 

そう言われると、ただそれだけで自分の行動が、世間に受け入れられないものだと勘違いして、行動をやめてしまう。自分に自信がない人は、世間の評判を必要以上に気にしてしまうため、その言葉だけでいとも簡単に操作されてしまうのである。

 

他人を操作しようとするときの言葉は他にもある。「あなたの言葉がどんなに私の心を傷つけたと思いますか。」と罪悪感をもたせようとしたり、「私のことを愛しているのなら、それをしてくれるのは当然じゃないですか。」と自分の要求することを受け入れるのが、愛することの証になると言ってみたり、「あなたともあろう方が、なぜこんなことをなさるのですか。」といったん持ち上げておいてから、罪の意識をもたせることによって、こちらの気持ちを混乱させ、自分に有利に話を展開するやり方をする人もいる。

 

人の言葉には多くの場合、言外の意味がある。悪意ある言葉に翻弄されないよう注意が必要である。人との会話の中で心理的に負担を感じるようなら、心理操作をされている可能性が大きい。言葉の罠にご用心。

ハートふるメッセージ | 17:22 | - | -
132.こころが疲れたら
 

私たちは、スポーツをしたり、何か身体を動かして働いた後などには疲れを感じます。そして、その後適度に休みをとり、水分や栄養を補給して時間がたつと疲れも取れ、再び働いたり、運動したりすることができます。人間はそのように出来ており、この理屈はよく理解できます。

 

じつはこころも疲れるのですが、「こころが疲れる」ということについては、あまり理解されていないようです。それは何故でしょうか?

 

私たちは自分の身体が疲れた時、たとえばスポーツや肉体労働の後など、疲れの原因となるものを、自分ではっきり意識できますが、こころが疲れた場合は、疲れる原因を、自分ではっきり意識できないことが多いからなのです。

 

「今日は疲れたなあ」と思ったときのことを、思い出してみてください。予定外の仕事があった時など、それほど身体を使ったわけではないのに、ひどく疲れを感じることがありますね。こころの疲れは、からだの疲れとして感じられることが多く、特にふだんと違うことをする時に、強く感じるものなのです。

 

こころの疲れは「想定外」のことや、ふだんし慣れないことをする時に強く感じます。こころは変化に弱いのです。変化はストレスになり、それが不快な気持を作り、身体症状としての肩こりや、腰痛、頭痛、食欲減退などを引き起こしてしまいます。

 

そこまでいかないうちに、疲れの段階でとどめて、そこからの回復をはからなければなりません。そうしないと、さらに胃炎、嘔気嘔吐、胃・十二指腸潰瘍、下痢などのいわゆる心身症に発展してしまい、治療が必要になってしまいます。

 

こころの疲れに気づく方法は、いま自分は楽しい気分でいるか、それとも楽しくない、嫌な気分でいるのかを、自分自身に問いかけてみることです。もし楽しくない気持であれば、こころは疲れているといえます。

 

楽しくない気分であれば、その原因をさぐります。例えば会社勤めの人の場合、さきほど述べた予定外の仕事などをはじめ、クライアントのクレームにうまく対処できず、落ち込んでしまった。それを上司に報告して叱責された。自分としてはできるだけのことをしたつもりだが、結果だけで判断されてしまう。同僚になぐさめられても、気持ちは晴れない。

 

このような場合、帰りに一杯ひっかけて、行きつけのバーのママに、上司の悪口を言ってすっきりする人は、疲れを翌日に残さないでしょうが、多くの人はこころの傷として、そのことはいつまでもこころに残っているものです。

 

楽しくない気分は、ストレスと関係があります。人がストレスを感じる場合とはどんな時なのでしょうか。簡単な言葉でいえば、物事が思うようにいかないときですね。そんなことは分かっているよといわれそうですが、その後が大切です。

 

生きている限り、いつも自分の思うように物事が展開すれば、ストレスを感じる人はいなくなるでしょう。あるいは、そんなにうまくいくこと自体が怖くて不安になり、そのことにストレスを感じるかもしれません。

 

物事がうまくいかないとき、わたしたちはそのことを何とかしようと考えますが、何とかなることでしたら、ストレスにはならないですよね。何ともならないことを何とかしようとするので、答えに行き詰まりストレスを感じてしまうのです。

 

何ともならないのであれば、それはそのままにしておこう。そのうち何とかなるだろうと開き直ることが大切です。いまの自分にはその問題を解決する力がない。でもこころが成長して、その問題を解決できる日がいつか来ると確信して、その日を待つことです。

 

小学校3年生の児童生徒が、6年生の試験問題を解こうとしても解けませんが、その子が6年生になったら解けるようになるのです。あなたは3年生なのに6年生の問題を解こうとしていませんか?

 

もちろんいま解決できることは、解決しなければなりませんが、ストレスを感じさせている物事、すなわちどうにもならないことは、そっくりそのまま置いておくのです。解決することができる時がくるまで待つのです。

 

そのように考えると、こころの疲れは和らいできます。さらにこころを元気にするためには、意識してたのしい気分を演出します。とにかく楽しいと思える状況を作り出すのです。

そしてその気持ちをできるだけ長く維持するよう心がけます。

 

東京ディズニーランドに行って、童心にかえって純粋にショーを楽しんでください。年甲斐もなくと非難されてもいいのです。人が何と言おうと気にしないでください。ここは人工的に演出されたショービジネスと分かっていても、こころを開放するすごい力を持っています。

ハートふるメッセージ | 18:09 | - | -
131.悩むということ
 

人はさまざまな悩みを抱えながら生きています。人間関係の悩み、将来に対する悩み、仕事上の悩み、恋愛関係・夫婦関係における悩み、学業における悩み、病気に関する悩みなど、生きている限り悩みから解放されることがないと思えるほどです。

 

悩むとはどういうこころの状態なのでしょうか。「苦悩」という言葉もあるように、悩みには苦しさも伴います。できれば悩まないで生きていたいですね。悩み苦しまないで生きていく方法ってあるのでしょうか。

 

まず悩みとはそもそも何だと思いますか。広辞苑には『いたみ苦しむ。病む。』と書いてあります。これではよくわかりません。

 

「苦」について仏教では『四苦八苦』という言葉があります。

「四苦」とは「生老病死(しょうろうびょうし)」のことで、文字通り、生きること、老いること、病気に罹ること、死ぬることの苦悩であり、これに愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四つの「苦」を合わせて「八苦」といいます。

「四苦」とは別に「八苦」があるわけではありません。
 

 

愛別離苦とは、愛する人と別れなければならないときの苦しみであり、怨憎会苦とは、憎い相手とも会わなければいけないときの苦しみであり、求不得苦とは、求めても得られないときの苦しみ、五蘊盛苦とは、人が生きて活動するときに味わうさまざまな苦しみをいいます。

 

生きているといろいろ悩みはありますが、悩みというのは、現状では解決できないことがすでに充分わかっている問題を、何とか解決したいという気持から起っているのです。

 

悩みを悩みとしてそのまま見れば、悩みというのは、一般的にはどうすることもできないものなのです。そういってしまえば身も蓋もないのですが、悩みを別の角度から見てみる、多方面からアプローチしてみると、解決手段が見えてきて、悩みが解消する場合があります。

 

岡目八目といいますが、当事者には見えていない解決手段があるのに、そのことに気がつかないで、頭の中で同じ考え方を繰り返していると、どうどう巡りをしてしまい、いつまでも結論に達することができず、疲れ果ててしまいます。

 

つまり、いままでと同じ考え方では、いくら頑張っても解決できないものが、悩みというものなのです。ですから別の見方、別の考え方が必要になってきます。

 

だとすれば、考え方の基本的なところに立ち戻って、考え方の根本を変えていかなければなりません。でもどのように変えていったらいいのかよくわかりませんよね。

 

人には変革を嫌い、安定を好む傾向があります。だから変わることは不安なのです。変わることはストレスになり、多大なこころのエネルギーを必要とします。できることならこのままでいたという気持ちがとても強いのです。

 

不思議なことなのですが、人はどんなに悩み苦しんでいても、それを変えようとはしないところがあります。それはその人にとって変わることの不安のほうが勝ってしまうからなのです。

 

そうはいっても、いまのままでは悩みが解決しないとしたら、解決するための方法を検討しなくてはなりません。いままでと違った角度から悩みを検討しなければなりません。

 

しかし、新しい考え方を取り入れようとするとき、こころの中では変革を求めるエネルギーと、安定に固執するエネルギーのせめぎ合いになります。

 

安定を求める気持ちは、いままで自分が悩んできた苦しさをよく知っているために、変わろうとすることによって、またそのような苦しみを味わうのではないかという、過剰な心配と、強い不安があるからであり、さらに、変わることによって悩みが解決するとは、思えないからだとおもいます。

 

どうせ何をやっても変わらないし、何をやってもむだであると結論を出しておきながら、それでも何とかしたいという、矛盾する思いが同時に存在するために、こころのエネルギーが相殺して、無くなってしまい、結果として無力感だけを感じるようになってしまうのです。

 

すると、その問題は解決しないまま、その問題が存在することによって、それを意識するたびに、何度もストレスを生み出してしまうのです。

変革に向けての一歩を踏み出す勇気が必要です。

 

「般若心経」というお経の中に、この悩みというこころの状態を開放する考え方が述べられています。一言でいえば「空(くう)」の思想とでもいうのでしょうか。奈良薬師寺の管主であった高田好胤さんは、これを「かたよらないこころ、こだわらないこころ、ひろくひろく、もっとひろく」とおっしゃっています。

 

「空」とは何もない「無」という意味ではなく、何にでもなりうる無限の可能性を秘めたこころの状態のことであり、「NOTHING」ではなく「EVERYTHING」という意味なのです。

つまり一つのことに固執せず、つねに自由に変わりうるので、そのこころがどのようなものであるかと、決めつけることができないこころの状態なのです。

 

その境地になると、自分の意志で、悩むもよし悩まぬもよしということであり、どちらをとるかは、あなたが決めることですよ、どっちがいいですかと言っているのです。悩むのも一つのこころの状態に過ぎず、悩まないのも同じ一つのこころの状態に過ぎないのです。

 

先に述べた、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の五蘊は、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊のことであり、蘊は集まりを意味します。色(しき)はこの世の中に存在する形ある物、人の身体を含めた物という概念であり、受(じゅ)は五感を通じて感じること、想(そう)は想うこと、行(ぎょう)は意志をもって行うこと、識(しき)は考え認識して、判断することを意味します。

 

般若心経のなかに、「照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」とあり、五蘊は皆な空であると述べられています。

 

このことの意味はすなわち、「観自在菩薩(観世音菩薩)は、五蘊は皆な空であると照見されて、一切の苦厄を度された。舎利子よ、色は空と異ならない。空も色と異ならない。だから、色は即、空であるし、空が即、色といってもよい。受も想も行も識もまた同じことだよ。」ということです。

「度する」とは広辞苑によると、「生死(しょうじ)の迷いの海を越えて、悟りの彼岸にわたること。」とあります。

 

観音様は、舎利子(シャーリープトラ)というお弟子さんに対して、人がこの世に生きていく時に感じている悩みや苦しみは、一つのこころの状態であって、それは絶対不変のものではなく、いくらでも変えることができ、こだわらないこころをもてば、すべての悩みから解放されると言っています。

 

つまり私たちが生きて、感じて、行動しているこの世の中のすべてのことは、一つのこころの状態であり、それは空であるので、決めつけることができない。だから、こだわらないで、ひろいこころをもって、悩まないで、自由に、自分の思うように、変えられますよということなのです。

ここでは「空」という言葉の意味を正しく理解することが大切です。

ハートふるメッセージ | 18:39 | - | -
130.こころの病気とからだの病気
「病気」という言葉は、英語では「disease」といいます。この言葉を分解すると、「ease」は和らげるとか、楽にさせる、くつろげる、という意味であり、これに反対の意味を表現する、「dis」という接頭語がついて、「disease」は、和らげない、楽しめない、くつろげない、苦痛である、などの意味になります。病気になるとこころもからだも辛くなりますね。

からだの病気を知らせるサインは、比較的自分でも気がつきやすいものです。例えば、熱が出る、赤く腫れあがっている、痛みがあるため動かせない、などの症状はからだに炎症が起っていることを示します。

その他にも、からだの臓器に問題があると、それぞれに特徴的な症状があり、その症状である程度診断がつく場合があります。たとえば頭痛がする、のどが痛くて赤く腫れている、咳や痰が出る、鼻水が出て、熱があるということであれば、呼吸器の疾患として、感冒やインフルエンザなどを疑い治療をします。重症化すると肺炎を起こしたりするので、入院が必要な場合があります。

吐き気や嘔吐、胃の痛みや下痢などは消化器疾患として治療し、突然激しい頭痛がして、嘔吐し、意識がなくなるようならくも膜下出血を疑い、突然激しい胸痛があれば、心筋梗塞を疑い、緊急手術が必要な場合があります。

これらは心・血管系疾患であり、くも膜下出血は脳神経外科で、心筋梗塞は循環器科で対処します。

たとえ自覚症状がなくても、血液検査、尿検査、心電図検査、脳波検査、レントゲン検査、CT検査、MRI検査などで、多くの場合病気の兆候をとらえることができ、病気の早期発見、早期治療に役立っています。

このように、からだの病気についていえば、診断技術や治療法は確立しているのですが、こころの病気についていえば少し違っています。こころの病気を知らせるサインは、比較的自分では気がつかないものなのです。

からだの病気を臓器別に分けてみますと、呼吸器障害、循環器障害、消化器障害、内分泌・代謝障害、泌尿・生殖器障害、運動機能障害、視聴覚を含む感覚機能障害などに分けられます。

これに対応するものとして、こころの病気を精神機能別に分けると、意識の障害、意欲の障害、記憶の障害、知能の障害、知覚の障害、自我意識の障害、思考の障害、感情の障害などに分けられます。

たとえば、うつ病になると、「気が重い。」「億劫である。」「やる気がなくなった。」は意欲の障害であり、「考えが浮かんでこない」「決断できなくなった」は思考の障害であり、「気分がゆううつである。」は感情の障害ということになります。

統合失調症における、「幻聴」は知覚の障害であり、「妄想」は思考の障害であり、「電波で操られている。」「誰かに命令されている。」など、自分の意志以外の力でさせられているといった体験は、自我意識の障害ということができます。

その他、認知症では「物忘れ」や「物覚えが悪い」などの記憶の障害、いったん獲得した知能が徐々に失われていくことによって起こる知能の障害がなどみられます。

このように、こころもからだもそれぞれに、病気になると特徴的な症状が出現しますので、それぞれの症状を自覚したら、病院に行って診察を受け、病名が分かり、それぞれの診断の下に、治療を受けて病気の回復を願わなくてはなりません。

しかし、からだの病気の場合、からだの不調を知覚したり感じたりするのはこころの働きなので、こころはからだが病気であることを認めることができますが、自分のこころが病気になると、それを自覚することは困難なことが多いのです。

自分で自覚できなくても、周りの人や、いっしょに生活している人から、いつもと違うねといわれたり、あなたらしくないねといわれたり、自分でも、どうもいつもの自分と違うなと、少しでも感じたら、かかりつけの先生に相談してみることも、早期発見につながる一つの方法ではないでしょうか。

こころの病気もからだの病気も、早期発見、早期治療が一番です。ぐずぐずして悪化させてしまうと治りにくくなってしまいます。
ハートふるメッセージ | 19:11 | - | -
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